『夕狐』
大雪山系の旭岳から尾根をずっと歩いて
黒岳山頂の山小屋についたときには4時近かった
それから急いで降りることもできたけれど
山小屋の人たちが「夏山ももうすぐ終わりで淋しくなるな」と言いながら
「鍋の材料も仕入れてきたので泊まっていくか」と誘ってくれたので
ご厄介になることにした
温かい服の準備はしていたが
夕方が近づくと山頂は風もあって気温が下がり始めた
辺りを散歩して小屋に戻ろうかと思ったとき
小屋の傍の岩壁の前に何か動くものがいた
小屋で犬を飼っているのかと思ったが
飼われている犬にしては痩せていた
見つけたときには座っていたのだが
目を向けたのに気づいたのか
一瞬立ち上がろうとしたときの目は野生の目
挑んでくるのではないのだが鋭さがあった
こちらが立ち尽くしていると
また尻もちをつくみたいにペタンと座り直し
今度はふわりと尻尾をこちら側に
そのとき初めてそれがキタキツネなのだと気づいた
少し見すぼらしい感じがする
毛が抜け替わるのか
それとも野生ではこの程度が普通なのか
毛並みが耀くというふうではなかった
飢えているのかとも思った
野生動物を餌付けするのは
いろいろな意味でよくないことなのだが
こいつは餌付けされたのか
静かに歩いて山小屋の入り口に居た管理人さんに
「キツネ」と小さな声で言うと
「ああときどきな やってくる
こちらからは餌をやったりはしないのだが
登山客の落としていったものとかを食べにくる」
それから僕は慌てて小屋に入り
スケッチブックを持ってキツネを見つけた位置まで戻った
キタキツネはじっと動かない
気温が下がっているのがよくわかる
手が冷たいのだ
僕がときどき位置を変えながら
鉛筆を動かしているのを向こうからじっと見ている
物欲しそうな目というふうでもなく
かといって先程一瞬見せたような目つきでもなく
「もう夏は終わりなんですかね」と聞いてでもいるように
そこに座ったままだった
こんな機会はそうないだろうと思って
僕はスケッチブックを下手な線で何ページも埋めていた
どのくらい経ったのか定かではなかったが
山小屋の人たちが
「えらく熱心だったね」と後で言ったくらいで
一時間近く僕はキタキツネと対峙していたらしい
残照が絶えて辺りは暗くなり
キタキツネの目や顔の輪郭がおぼつかなくなる
小屋から「そろそろやるか」と鍋の支度ができたことを告げる声
「あ はい」
そう言って僕が小屋の方に応えると
もう餌にはありつける可能性はなさそうだと思ったか
キタキツネはふっと立ち上がり
小屋の斜め下辺りの岩陰の方へ歩き始めた
ほとんど見えなくなった向こう側の山頂を背景に
キタキツネはそのまま
夕闇の中に消えていった
毛の色を忘れないうちにと
ワンカップの日本酒を飲みながら色を付けた
連泊していた動物カメラマンが覗き込んでは
「そこ色もう少し」とか行ってくれたのを覚えている
あれからもう随分と年月がたった
もしかしたらあのキタキツネはもう生きてはいないのかもしれない
あいつはあの夕暮れに
どうして一時間もじっと座っていたのだろう
何かを期待していたのかもしれないが
あの静かな去り方を思い出す度に
僕に付き合ってくれていたのかもしれないと思い返す
それだけの時の経過
一期一会の夏の終わり
スケッチブックは古くなって汚れもあったのでコンピュータで編集しています


