海浜墓地にて・1 | 不完全な切り紙細工

不完全な切り紙細工

 誰も聴く人がいないのに歌いつづける歌がある
誰も見る人がいないのに踊りつづける踊り手がいる
誰も読む人がいないのに書きつづけられる言葉があって
不完全な切り紙細工を幾つも幾つもつなげていけば
そこに何かの絵が生まれるものと願う鋏がここにある

 
 
 小さな入江を右下に見下ろす位置にこの家はある
 急坂を登ってくるとき背の高い雑草の隙間から海が見える
 歩いて登ってくれば路肩の草の方にもっと近づいて
 眼下に広がる海を
 磯からずっと入江の方に湾曲する海岸線を見ることができる

 家を過ぎてしばらく下り
 街の方へと向かわなければ他の道が何本かあり
 その一本はずっと下って
 かなり海面に近く
 と言っても海際ではなく
 よほど大きな津波なら分からないけれど
 少なくとも15メートル以上は海面より上の安全そうな高さに
 入江というほど湾曲しない緩やかな海の弧に沿って
 続いている

 さらに進むと
 なだらかに傾斜した土地が広がっていて
 その一画は墓地になっている
 海を見下ろすその土地はもともとは
 別荘地か何かの目的で開発されたものか
 あるいは人為的な開発の遥か遠い以前に
 一帯の岩が崩れて傾斜地が出来上がったのかもしれない

 近くに寺院はないし
 墓石も仏教式もあれば十字架や読めない文字を刻んだものもあって
 いわゆる共同墓地的なところなのだろうと思う

 一度だけ前に来たことがある
 初夏だったか陽射しが眩しく
 歩いていると次第に汗ばんできたのを覚えている
 けれど潮風がまっすぐに吹いてくる場所でもあるので爽快だった

 比較的大きなヨットが白い大きな帆を二枚
 蝶の翅のように広げて水平線を進んでいくのが見えた
 何かが気がかりだったのか
 歩みが時折バランスを崩す気がした
 いや倒れたりするようなことではなくて
 開けた墓地の空間に広がった光と
 圧してくるような風の密度に戸惑っていたのかもしれない
 自分が揺れる度に水平線も揺れ
 ヨットが斜めになった水平線を滑り落ちるような淡い錯覚

 ひとところに
 部屋の中に留まっていられなかったのは今日と同じだった
 まったく何処へ行こうとかの目的地も目標さえもなく
 移動し続けたいという
 それだけで歩き続けて
 明るく開けた視界が墓地だと気づいたとき救われた気が少しした
 なぜと
 それはもはや足掻くことを止めた人たちが
 眺めるともなく海を眺めている場所だと思えたからだった

 怒り戦って勝ち取るべきものも守るべきものも既にない
 悲痛な声を聞く耳もなく
 またここに泣きに来る者がいたとしても
 手を差し伸べて泣くなと言うこともない
 笑い声を響かせることも
 抱き合ってその一日その後の日々の幸せを願う必要もない
 既に生は死として憩ったのだと

 一つ一つの墓を見るともなく見て歩いていた
 今やこの場所を家としてやさしく佇むことのみとなった人たちの
 声を聞こうとしたわけではない
 彼らはきっともう何も言うことはないだろうと思っていた
 
 それは悲しみではなくて平穏だった
 ああいつか自分もこういう場所に所を得ることがあるのだろうか
 あるいは親たちの望んだように
 海の水の奥深く
 あるいは見えなくなるまで地の土くれに紛れていくように

 けれどそういう先のことは深く考えることはできなかった
 ただ光で暖められた墓石の静けさに
 心の中で抗うものを解きほぐされて
 石の懐に抱かれていたらどういう感じがするのだろうかと

 そう思いながら歩いては止まりまた歩き出す
 そのどのときも正午過ぎの影は
 墓石の上に鮮やかに映って
 長い昔からそこにあって石に馴染み
 動かないまま息をし続けてきたような気がした

 運命とか定めとかいう言葉には馴染めないけれど
 その場所は十四五の頃に本の中で出会った
 そして何かを脳裏に刻んだそういう場所に似ていると思った