僕と言葉と | 不完全な切り紙細工

不完全な切り紙細工

 誰も聴く人がいないのに歌いつづける歌がある
誰も見る人がいないのに踊りつづける踊り手がいる
誰も読む人がいないのに書きつづけられる言葉があって
不完全な切り紙細工を幾つも幾つもつなげていけば
そこに何かの絵が生まれるものと願う鋏がここにある

 
 
 僕が言葉の細かいことについて書いたりすると
 ああ翻訳のお仕事なさっているのですか
 と考える人もいるのかもしれない
 確かに僕は言葉が好きなのだと思うし
 でもこの話を始めると僕は本を何冊も
 書いてしまいたくなるかもしれないので
 なるべく手短に書くことにする
 それでなくても長い記事を読む人は少ないので
 これも最後まで読まれることはないのかもしれないけれど
 書いておいたほうがいいのかなと思うことも
 いくらかあって



 僕は小学校の5年生に当たる歳にだったか
 26文字に該当する奇妙な文字を作って
 それを左右反転した形にして日記を
 それこそその日のブログをノートに書いていた
 ある日先生に見つかって母が呼び出され
 「よくできるお子さんなんだから
 こんな変な遊びはやめさせたほうがいいですよ」と叱られた

 確かに僕は中学生くらいのときに
 修道院の奥深く学問僧として生きていた老神父に
 ひとりきりでラテン語を習っていたことがある
 彼は実は日本の古典を大学で教えていたことがあり
 20数ヶ国語を話すことができる人だった
 僕は彼の美しい白髪とモノクルが好きだったので
 彼をFr.White Lionと呼んでいた

 大学の1年生だったか出来心で
 サンスクリット語の授業を選択したことがある
 選択していたのは二人きりで
 もう一人はインド哲学を専攻している優秀な学生だった
 「君 なんでこの学部の講義なんか取ったの」と聞かれたりした
 
 もうその頃の勉強は曖昧になっているけれど
 今でも僕はときどき分厚い羅和あるいは羅英辞典を読み耽るし
 梵字の般若心経を読むことがある
 でもそれは僕がラテン語やサンスクリット語を
 完全にマスターしたということではない
 中途半端な「ときどき言語利用者」だからね

 このブログでもエスペラント語で書いたページが何処かにあるし
 まぁその他にもいろいろと愉しみにしているのは本当だ
 エスペラント語は文法自体はおそろしく簡単だけれど
 やはり言葉であるからにはそれなりの奥深さがあるものだ
 だいたいエスペラント語はラテン語への憧れとして作られたものだ

 それから
 僕は専業プログラマではないけれど
 おそらく25種類以上のプログラミング言語を使ってきたし
 今これを書いているコンピュータは手作りだ
 そして自分でプログラミング言語自体を作ったこともある
 でもそれはとても簡単なシステムで
 その気になれば誰だってできることなのだ
 今もなお僕にはもうひとつ言語を作りたいという夢がある

 ひところ僕はそういうプログラミング言語の文法書を読むのが趣味になり
 (ただし日本語のは駄目 表現が曖昧すぎてわけがわからなくなる)
 同じ言語の異なる解説書や文法書を
 「なるほど こう書けば美しい」
 そう思って何冊も読んでいたものだ

 プログラミング言語は一般的には極めて厳しい文法に制限されている
 むろん自然発生的な言語でもそうなのだけれど
 自然発生的な言語には必ずと言っていい性質がある
 それは「曖昧さ」を許容できるということだ
 プログラミング言語でそういうものを許容すると
 何が起こるか予想もできない
 バグどころの騒ぎではなくなるだろう
 もっともプログラミング言語でもある種の「曖昧さ」を許容する
 その二つの「曖昧さ」はどう異なるか
 これは結構興味深いところなのだが・・・



 でもだから?
 特に今僕が何かを書くときにそれらが役に立っているかどうかは・・・
 ただ書くときや人の書いたものを読むときも
 どこまでが文法に合っていて何処からがずれているかとか
 これは古語的な言い回しで現代文の中にあるのは可笑しいなとか
 そんなことを考えながら読んでいる気がする
 そんな程度にしか役に立っていない
 (というかこれ 何かの役に立っているのかな)
 文法学者とか文学者になったなら少しは役に立ったかもしれないが
 
 僕は最近になって
 言葉というものをもう一度考え直し始めている自分に気がついた
 それは一つにはここでアレコレ書いていて
 それからここの人たちがアレコレ書いているのを読んでいて
 だんだんと言葉というものの
 成り立ちというか仕組みというか
 あるいは言葉が音楽や人の振る舞いと何処が同じで
 何処が違うかが気になってきた
 これは以前もすごく気になった時期があったのだけれど
 それがまた再燃してきたって感じだろうか

 そして僕が最近考えだして止まらなくなり出していることは
 言葉を解体することなのだ

 解体するって?
 言葉 ーー> 言 + 葉 ?
 いやまあ それも一つかもしれないけれど
 
 言葉にはいろんな要素があるじゃないか
 おそらく無限に
 人生のすべての出来事を積み上げても
 それ以上に高く高くなるほどに

 言葉は文字であり音である
 あるいは声であり歌である
 あるいはそれは行動であり記憶であり社会である
 あるいはそれは憎しみであり愛である

 言葉には文法があり用法がある
 言葉は生き物であり死語であるラテン語ですら変化する
 オリジナルがあり派生したものがあり

 それから文法書と同じくらい
 いや現実的には遥かに重要なものとして
 辞書がある
 辞書は基本的な語彙を集めているわけだけれど
 もうその辞書の中で言葉が醸成されていくものだ

 人にはその人なりの語彙があり
 ある領域にもまたそれなりの語彙があり
 その領域というのは
 専門分野だったり生活様式だったり年齢だったり
 いろいろだ

 そして言葉には意味があり
 その意味は一つの単語に幾百もある
 意味は言葉が生きている限りどんどん変わっていくし
 それは一人の人の一つの言語のなかでさえ
 とても容易に変化し続ける

 でも不思議なことにそれだけ高度で複雑な言葉を
 僕たちは平然と毎日使って暮らしている

 それを解体するってどういうことだ?

 いや
 たぶん今の時点では
 いやおそらくいつになっても僕の場合は
 そんなに大きなことを言っているわけではない
 ひどく簡単なことだと思うのだ

 
 やっぱり長くなりそうなので今夜はこの辺でやめておく
 また気が向いたらお付き合いくださいな馬鹿話


 そうそう最後に一言言っておかなくてはいけない
 こんなことを書くと「言語学がご専門?」とか言われそうだけど
 ぼくはそういうものではけっしてありません
 (ひらがなだけでかけるといいなといつもおもってきました)