不即不離という言葉がある
人にせよ出来事にせよ
溺れて苦しまないために傍観して後悔しないように
何事も
つかずはなれず
消えたダフネに皆も僕も動転するなかで
僕の頭の芯では
この言葉が痛みながら光りだしていた
ダフネとの距離
それはずっと解けない謎のようなものだった
心にひっかかり伸し掛かり
でもダフネ2の言うように
もしそれが執着になりつつあるのなら
それは不即不離ではもうなくなっている
ダフネ2の言うように僕はもしかしたら
もしかしたらダフネとの間に距離を置くべき時なのかもしれない
僕はいつも素速く考える
それは昔からだったのか
親しき人たちの突然の死に何度もさらされてきたために
いつの間にか氷の革のように
僕に張り付いたものだったのか
心動く前に切り替える
けれど僕はそういう切り替えのできるときと
できないときがある
あるときには兎の跳ねるように素速い切り替えは
また別のときには泥の中の亀のようにのろかった
ダフネ2がソファに座ったとき
外から数人の男たちが早足に入ってきた
「すみません
逃げられました
女の子も一緒・・・」
そこまで言って警備に当たっていたらしい男たちの
リーダー格の男は
何か不思議な
この世のものではないものを見るような目つきになり
言葉を呑みこんだ
「この この子は」
彼は連れ去られたはずのダフネがそこに
何事もなかったように座っているのを発見して
動揺したに違いない
それからほとんど同時に二人の人間がそのリーダー格の男に言った
ひとりは言うまでもない
あのひとだ
「事情はかなり込み入ってきた
君たちに落ち度があったとは思っていない
この子については後で話すとして
出て行った連中は車を追っているのか」
そうあのひとはいつもの冷静な表情で言った
もうひとりはエスポワールのGさんだった
「お前 何故こんなところに?」
Gさんはそう言って立ち上がった
お前?
その言葉を聞いて僕はもう一度そのリーダー格の顔を見た
それはあのひとが
老骨のご奉公みたいなものだと言った長い外遊の後に
崖の上の家まであのひとを送ってきた
外交官にしては屈強だと思った男
あのひとが確か「G君にはずいぶん世話になった」と言っていた
あのひとは少しも驚いたふうでなく
レスポワールのGさんをソファから見上げて言った
「お母さん 彼は
息子さんはここのところずっと私と一緒に仕事をしているのでして」
「おやまあ なんていうことで
先生のようなお方と一緒に」
そう言って次の言葉が見つからないかのように
まだ手にしていたハンカチを口に持っていった
あのひとはもうそれ以上Gさんには何も言わずに
「追ってる連中からの連絡は?」と『G君』のほうに向き直って聞いた
「芳しくありません」と『G君』が答えた
「まかれたのか」
「そう言われてもしょうがない状況になりつつあります」
「なりつつ?」
「はい 高速に乗ったところで
監視カメラから消えたという連絡が来たばかりです」
「消えた? それは他の車に紛れたという?」
「そうとしか
いえ最悪の場合 乗って紛れて直ぐにまた降りた可能性も
あそこはご存知のように出入りが混みあった場所なので」
そこまで『G君』が言ったとき
思わぬ声が割って入る
「追うのは無理ね
というか追う必要はないの
ダフネは無事
無事に確保されたから
この人たちが探さなければいけないのは
こんなことをした人たちだと思う」
ダフネ2はそう言って
自分が座っているソファの背もたれの
ちょうどダフネ2の胸のあたりの高さの場所を
白い指で指し示した
『G君』が「あっ」と小さく呻いた
ソファには何か熱いものが突き抜けたような
薄黒く丸い跡があったのだ
「いつだ?」
と言いながら覗き込んだのはクルーザのキャプテンだった
「今よ
この人たちが入ってくるとき
音に紛れるように撃った」
とダフネ2が答えた
「行き給え」とあのひとが言うのと
『G君』が振り向いて仲間に「行け」と言うのが
ほとんど同時だった
「つまり」とあのひとがダフネ2をしげしげと見ながら言う
続く言葉を聞きもせずにダフネ2が答えた
「そうよ
あの人たちは私がダフネだとまだ思っている
好都合でしょう?
だから追わなければ
対処しなければいけないのは
ダフネを守ろうとしている私たちにではなくて
ダフネを撃った人たちになの」
「私たち?」とあのひとと僕が同時に聞き返す
「そう その石の仲間」
あのひとに向かってダフネ2はいとも簡単に答えてから
僕の方に顔を向けて言った
「何度も会ってるのに
あなたって意外に鈍感なの?」
「そうか」とあのひと
「『そうか』ってどう言う?」と僕
あのひとは僕に答えずに
ほとんど独り言のように言う
「つまり
我々は今日はもうここを引き払うべきときだということだな」
それに対してダフネ2が
どこか子どもっぽい誇らしげな様子で胸を張って言った
「崖の上の家に戻るのが一番いい
もう病院には戻らずに
あなたたちも(そう言いながらダフネ2は『G君』をちらりと見ながら)
そこが守るべきところだと思う」と言った
『G君』は何も言わなかったが
一度だけ瞬きをしてから踵を返して
入ってきたときと同じように早足に出て行った
「では行くとしよう」
そうあのひとが言うと
まるで何もかも予定されていたかのように
皆が一斉に立ち上がった
Gさんだけが少しよろけるように揺れ
それをクルーザーのキャプテンの奥さんが支えた
「この人は私たちが送ります」とキャプテンが言い
あのひとが
「頼みましょうかな」と答えると
皆が影絵の人形のように静かに歩き出し
長かったコム・ゴギャンの夜が
朝陽の眩しさに触れた朝露のように消えて終わった