明鏡止水という言葉がある
もともと明鏡と止水は荘子の別々のエピソードらしいのだが
いつの間にか熟語化したらしく
静まり返った水が磨かれた鏡のようだという
起こるべくして起こる誤解が生まれ
ならば
止水明鏡というべきではないかと言う人もいるらしい
僕は今磨かれた鏡というイメージには関心がない
それは何かしら努力とか研鑽という匂い
人工的な匂いがするからだ
もとの止水は荘子が
孔子の言として描いたエピソードで
人は流れる水によっては自分を省みることはない
しかし静止した水に向かっては自らを見る
省みるとか見るではなく落ち着くとか自己を見出すとか
そういう意味合いの解釈もできるのだろう
荘子では「かんがみる」「かがみ」という言葉には
鑑という字が当てられている
必ずしも視覚的な鏡ではないのだ
しかし今僕は
静まり返った水が作り出す鏡とその像に惹きつけられ
その話をしようとしているので
中国思想に立ち入ることはしない
昨日僕はいつもの大池の周りを数周走った
走らないではいられない何かがあったわけでもない
いや少なくとも自覚していた理由は何もない
走り終えて水辺の鳥たちを眺めていた
まだ朝早くだったせいなのか
それとも秋の静かなる光の恵み
あるいは微かに吹いては凪いでしまう風のためか
何度も来ている場所なのに
これほどまでに水面が鏡のように見えたことは一度もなかった
走る格好をしていたので素足に風が快いのをいいことにして
余り移動せずに
二三の場所にとどまって写真を撮り続け
気がついたときにはよく似た光景を
1000枚近くも撮っていたのだ
それだけ時間を忘れていたのかもしれない
例えばこの写真
どこからが水でどこからが岸であるか
すぐに言い当てられるだろうか
写真を撮った僕自身しばらく考えてしまう
さらに下の写真はどうだろう

これは言うまでもなく
一枚目の写真の上下を画像処理で反転したものだ
ふつう上下に実像と鏡像が並ぶ場合
その境界線は鳥の足が水につかっている線だと思うだろう
確かに鳥について言えばそうなのだ
しかし一枚目で言うと
岸は鳥の頭よりも少し上にほんの少しだけ写っているだけで
写真の天地で言えば一割にも満たない
では美しい緑の草はどこにあるのか
居並んだ草の実像は写真には全く写っていない
水辺の草はすべて水に映った鏡像なのだ
つまりこの写真の9割以上の面積に写っているのは水
そこに一羽の鳥とその鏡像
実像の鳥は鏡像の石堤と草を背景にして佇んでいる
ここには二つの異なった鏡像構成がある
風景の鏡像と鳥の鏡像
そしてその虚実の境界線は
鳥では写真のほぼ中央
しかし風景の虚実の境界線は鳥の頭の上にある
ファインダーを覗いているあいだに
僕は実像と鏡像に眩惑され
その境界線が次第にわからなくなっていった
映像の細かな不思議さや鳥に関心のない人には
どうでもいいことなのだと思うのだが
空を飛ぶときに感じる不可思議さに似たものがあると思う
僕たちの居る空間が
単純に一つの空間構成で成り立っているのではないという
奇妙な感覚
そのおかげで僕は語らずにはいられないのだ
上の写真で言えば
僕が見ている世界は
鳥の構成と風景の構成という
異なった二つのパースペクティブな構成からできていて
日頃僕はその二つを知らず知らずのうちに
一つの構成しかないと錯覚している
そんな感覚なのだ
「構成」とか「パースペクティブな構成」とか
キレの悪い言い方しかできなくて不愉快だが
つまりは物事を見る僕の視点と見えている物事の間の関係図式みたいなものだ
もっとわからなくなった・・・
ちょっと特殊な専門用語を思いつかないではないのだが
それを説明していると明日になってしまう
話を虚実
実像と鏡像に戻そう
(僕はしばらく「実物」という言葉を使わない
実物の鳥は写真の中にはいないからだ)
この写真では鳥はかなり上下対称の実像鏡像関係になっているけれど
それでも実像の鳥は斜め左上に首(頭部)を伸ばしていて
普通の逆さ富士的な上下鏡像ならば
鏡像の鳥は斜め左下に首(頭部)を伸ばしていなければならないはずなのだが
実際は違う
そして少しだけだが鏡像の方が背が低い
ちょうど日が高くなっていったときの影のようになっている
でも鏡像は影ではない
おそらくこれは鳥が写真の真左を向いていず
やや向こう側に向いて首を伸ばして頭部を少しひねっているからなのだ
それと僕の目の位置も関係があるだろう
では次の写真はどうだろう

これは随分と上下対称に見えないだろうか
でもおそらく僕たちには実像の鳥の腹は見えない
次の一枚はもっと鏡像の鳥の背が低く見える
理由はともかくも
上下対称の逆さ富士的な鏡像は意外に少ないものなのだ
遠景の富士はもう既に一枚の平板な絵でもあるけれど
今そこに動いて生きている鳥は
平板な絵にはならない
平板な絵ではないのだということに改めて気付かされた
そうしてそういう少し入り組んで見える構成
何重にも重ねられたパースペクティブを
僕は本気で美しいと思うようになった
それはあの遠近法の透視図が
幾重にも重なっているようなイメージだ
鏡像の中にもう一つ二つと鏡像が埋め込まれた世界
時間があったら
絵にしてみたいとさえ思う
さてさて幾何学はそのくらいにしよう

これは随分と上下対称性がある一枚
鳥の向きを見てみるとほぼ真横に左を向いており
上の推測が正しいのかも知れないと思えてくる
まだ幾何学をやってるって?
では次はどうか
水辺の静けさは変わらないけれど
円い波紋が上下の対称性を
やわらかく崩している
手前には小さな泡か水の飛び散ったような跡が見えるだろうか
この波紋を見て
初めて僕たちは水面がどういうふうに広がっているのかに気づく
つまり水面は向こうから手前に傾斜している
と言うか僕が斜め上から水面を見ていることになる
以前にも佇む鳥の脚の周りに
美しく波紋が広がるのを見て
静かに見えながら鳥の脚は水を動かしているのかと
思ったのだが
この水の輪は鳥の脚元を中心にして広がっていないではないか
では何が?
見えるだろうか
そうだ鳥の口に小魚が跳ねている
鳥が嘴で挟んでから首を振って嘴を緩め
宙に舞う小魚を喉の奥に呑み込もうとしている
つまり先ほどの円い波紋の正体は
こいつ お尻がかわいいな 頭は見えないけど
まるで長い首を柄にして頭を振り回し水を叩くように
頭を水の鏡に突っ込んでは
鳥は小魚を漁(すなど)っていたのだ
この動的な瞬間に上下対称性はどのように崩れていたのか
僕は何度も写真の細部を眺めてみる
対称性の崩れた鏡
もちろんそれは僕たちの部屋の中にもあるのだが
こうして水という不可思議にそれを見いだすと
心が躍るのだ
止水の鏡と漁ることはなんら関係のないことのように思える
けれど
対称性を崩しているのは
生きて動く者たちの営みなのだ
そこには何かしら止水の鏡と漁ることの間に
目に見えにくい関係があるのではないかと
僕は考えもし感じもする
多分もう一二回印象が異なる写真を取り上げて
止水の鏡の世界と
それがダイナミックに崩される有り様について
書きたいと思っている
少しは美しいと思える要素も増やして
しかし余りに自分勝手な関心で書いているのと
元から芸術性の乏しいトキドキフォトグラファーの写真を
説明の便宜上かなりトリミングし
画質もここの都合上落としてあるので
果たして関心を持って読んでくれる人が二三人もいるのだろうか
と懸念しないではないのだが
まあ過疎ブログのいつものことであるし
それ以上に今の僕は
水の魔力に勝てないらしい
鏡で思い出すのは
イソップの犬と肉の話だ
肉だか骨だかを咥えて橋の上を通りかかった犬が
ふと水面を見下ろすともっと大きな肉を加えた犬が居たので
「そっちを俺に寄越せ」と吠えて肉を取り落としたという皮肉な話だが
そのとき肉は本当に大きく映っていたのだろうか
記事の最後に
おいおいお前もかという写真を載せておこう
あちゃー へマッタぁあ 獲ったのに口に入らぬとは そりゃサギだ・・・・
と鷺は言わないだろうが








