真夜中のコム・ゴギャン(11) | 不完全な切り紙細工

不完全な切り紙細工

 誰も聴く人がいないのに歌いつづける歌がある
誰も見る人がいないのに踊りつづける踊り手がいる
誰も読む人がいないのに書きつづけられる言葉があって
不完全な切り紙細工を幾つも幾つもつなげていけば
そこに何かの絵が生まれるものと願う鋏がここにある


 人生にはきっと幾つもの分岐点が在る
 崖の上の家の直ぐ側にも
 その分かれ道は右の海側に逸れれば崖の上の家に
 左に逸れればずっと小山を迂回する山道へと続いている

 人生にはきっと数限りない「もしも」がある
 あのときあんなことが起きなければと

 でもあのときあんなことが起きなければ
 それが起きなければと願う今の僕もきっと居ないのだ

 そういう分岐点はきっと世界の至る所に
 そしてありとあらゆる瞬間に
 口を開いているのだろう

 結局は愚かな行為も含めて僕が在る


 真っ暗になったレストランの窓の外から
 数人の
 いやもっとかもしれない
 何人もの人が素早く走る音が聞こえてきた
 足音は近づいたり遠ざかったりし
 やがてハンディートーキーの
 何を言っているのかはわからない
 歪んだ男たちの声が外の空気の中で交錯するのが聞こえた
 外で何か動きがあったのか
 それとも突然の暗転に対処しようとしているのか

 ホールで最初に声を上げたのは
 クルーザーのキャプテンだった
 「立たないで 動かないほうがいい」
 威圧するように硬い声で
 こんな話し方をする人だったろうかと
 僕は夏を思い出そうとした
 でもキャプテンはすぐに少し笑いが混じったような声で
 「暗闇で動きまわるとデッキから落ちますからね」と言い足した
 そう言えば夏にクルーザーで湾を回遊したとき
 あの急な大波で僕たちは
 ダフネとMと僕はもう少しで甲板から放り出されそうになった
 でもあれは真昼の出来事で

 キャプテンがそう言った後は誰も何も言わずに
 身動きしなかった
 こんな暗闇でも微かに光が滲みこんでくるものだ
 そしてそのおかげで
 動けば闇の濃淡が動いて
 そこに誰かが居るとわかってしまう
 もしこの暗転が先日と同じように仕組まれたものであったら
 侵入者はすぐに僕たちの所にやってくるだろう
 そう皆が思ったに違いない

 けれどダフネはくるくると回ったまま
 止まろうとはしなかった
 それがわかったのは
 ダフネの両腕が
 見えるか見えないかの白い輪になって
 闇の中を回り続けていて
 ダフネの妙に甘い匂いが闇の中に舞っていたからだ

 それからさっきまで僕が居た廊下の窓の辺りを
 誰かが飛び越えて廊下の木組みの床に降りたような音がした
 僕はキャプテンの指示を破って立ち上がり
 ダフネを抱きすくめようとしたと思う
 でもダフネは逆に僕に両腕を回して
 一緒に踊りだそうとするかのように
 僕に腕を回したまま上半身を後ろに倒し
 僕を引き寄せた
  
 ダフネが「踊ろう」と言うのが聞こえた気がする
 いや錯覚だったかもしれない
 今までにダフネが Let's なになにと言うのを聞いたことがない
 ダフネにはtogetherという感覚がない
 いや少なくとも言葉の上では
 だから僕の聞き間違いかもしれないと
 僕の人生は聞き間違いでいっぱいなのだ

 そう思った途端に
 今度ははっきりと聞こえた
 「こんな素敵な夜に踊らないのはおかしいわ」
 ダフネの斜め後ろに誰か居る
 ダフネと同じ背格好で
 よく似た服を着てダフネの声で

 なんということだ
 ダフネ2がそこに立っていた
 ダフネ2は僕の幻覚なのだと
 兎のハク同様白昼夢なのだと思っていたのに
 そして今まで一度としてダフネが居るときには現われなかった
 そのダフネ2がダフネの横まで来て言った
 「今夜はお祝いの夜
  未踏さんはお嫁にいき
  あなたは自由よ
  もう未踏をあ・い・し・て・い・るKはおしまい
  踊ろう 踊ろう 踊ろう」

 そう言うとダフネ2はダフネの片腕をとって
 僕たちの間に割り込んで三人の輪を作って右回りにスキップし始める

 僕はまた言葉を失ってしまっていた
 ほとんど自分は気がおかしくなったのだと
 その狂気のなかで何をしたら
 この馬鹿げたロンドを止められるのか僕には分からなかった

 ダフネ2が右回りにダフネを引っ張ったので
 ダフネも右に重心を移した
 「ダフネ やめて」
 そう未踏が言うのが聞こえた
 未踏にはダフネ2の存在がわかっていないのか
 けれど二人のダフネは踊り続け僕を引きずった

 ステップを踏む靴音が暗闇にコツコツと響き
 僕はまた頭がクラクラし始める

 そのときだった
 誰かが僕の右肩をかすめるように走り過ぎる
 いや僕の肩に何かやわらかなものが当たって離れた
 僕たちのうちの誰も立っては居ないはずなのに
 背の高い黒い影
 微かな何かの澄んだ匂い
 グラスがテーブルから落ちた音

 そして皆が目を一瞬閉じたに違いない
 営業中と同じだけの照明が一斉に戻ってきて
 光がレストランの外にまで溢れ出しそうなほどに明るく膨らんだのだ

 そして僕の腕の中にはダフネが居た
 ダフネ2は跡かたもなく消えたのだ
 いや違う
 消えたのは大切な僕のダフネの方だった

 僕の腕の中から
 ダフネの声が言った
 「さあもう安心 こんなに明るくなったのだから
 お祝いをしましょう しましょうよ」

 その声は皆に聞こえたらしかった
 怯えきった未踏の叫び声
 「ダフネはどこなの  この子 誰?」
 そう言ったまま未踏は動けなかった
  
 「いかん」というあのひとの緊張した声
 慌ててダフネ2の腕を振りほどいた僕のすぐ横のテーブルに
 先日と全く同じ
 透明度が奇妙に高い翡翠のような卵形の石が置かれているのが見えた

 あのひとが呻くように言った
 「今度は本気なのかもしれん」