その夜
僕は酒も飲まずに酔っていた
酔うということはアルコールが脳のブレーキをはずすことなのではない
血の流れが早まって身体が熱くなり
その一方で奇妙に身体が弛緩する
弛緩のおかげでリラックスはするけれど
火照りが
身体が本当に落ち着くのを妨げる
そういう熱っぽさと弛緩の葛藤が酔いなのだ
そして
そういう状態をもたらすことができるものであるなら
どんなものにも人は酔う
年月が経った後で聞いたAさんのピアノも
未踏の歌も
信じられないほどに大きくなっていた
それに
それはただのピアノただの歌ではない
僕の生き方に深く刺さったピアノと歌だった
それから
忽然となくなってしまったに等しかったレスポワールが戻ってきた
それだけでも胸が痛くなるほど嬉しいことなのに
お互いを気遣う気持ちがかえって距離になっていた二人
未踏とAさんが結ばれるのだ
それは女と男が結ばれるということだけではなくて
僕の胸を貫いていたピアノと歌が結ばれることでもあった
優しさ故に滞りかけたデュエットを僕は少しだけ後押しし
そのお礼にか
二人が最初に共同で作った歌を
それも僕に歌いかけた歌をもらったのだ
僕はもうほとんどまっすぐには立っていられそうもなく
Aさんのタッチが揺れて伝わってくるピアノに寄りかかって歌を聞いていた
いや聞くというより
それは音ではなくて熱だったから
そしてその熱は歌のあいだ中ずっと終わってからも
僕の胸の中でどきどきと鼓動し小さな爆発を繰り返していた
歌詞の言葉一つ一つが事の成り行きを思い起こさせては反芻させ
僕の心の弦を強く掻き鳴らした
それはきっと
僕の耳がやっと音を取り戻したところで
まだバランスを崩したままだったせいもあるだろう
僕は耳ではなく
身体で歌とピアノを聞いていたのだと思う
それだけに音はなおさらに僕を揺さぶった
あるいはまだ何かの薬物が残っていてそれゆえに
頭がくらくらしていたのかもしれない
斜め左前のテーブルに座っていたGさんは
笑いながら泣き続けていた
華奢なハンカチが何度も目の周りを動きまわって
涙の後始末に大わらわになっていた
Gさんは僕と未踏の間に起きたことをたぶん一番よく知っていて
親身になって気遣ってくれた人だったから
その涙は僕の胸をも締め付けた
ダフネは歌う未踏の斜め後ろに立って
未踏の方を見ていたが踊り出しはしなかった
大人の世界に紛れ込んだ子どものように
小さな違和感があったけれど
ダフネは音から浮いてはいなかった
それはたぶんダフネが
見えるか見えないほどの爪先立ちを
曲に合わせて繰り返していたからだ
それは今のダフネを象徴している動作に思われた
何かはわからないが
跳び上がりたいが跳び上がらずに
走り出したいが走りだすまいとするような
歌が終わってピアノの最後の音がゆっくりと消えると
今夜ここで何度も聞いた
うねるような拍手と歓声がまた沸き上がった
ペンギンみたいに着飾ったコム・ゴギャンの亭主が花束を持って現われ
未踏の手を握り大きな声で「おめでとうございます」と言ったときには
客席の興奮はピークに達していただろうか
亭主は客席の方に向き直ってこう言った
「こんなに素晴らしい音楽と仲間たちです
いつまでも続けばいいと思います
でも今夜
この特別ステージはここで
感極まったところで終了とさせてください
今夜はこの人たちのために」
そう言ってピアニストや歌い手や僕
レスポワールの人たちを見回してから続けた
「もうひとつ宴をと思うのです
アンコールをお望みのお客さまは多いこととは存じます
もちろんそれにお応えしなくてはレスポワールでもコム・ゴギャンでもない
しかし今夜は
いろいろな意味での新しい出発です
どうかアンコールは後日再び
それも遠からぬ日にまたこの場所でお願いしたいと思うのですが」
それからダフネに近づくとすかさず手をとって言った
「もう眠い人もいるに違いありませんし」
ダフネは手をとられたままポカンとした表情で亭主を見ていたが
それがなおさら亭主の言葉の信ぴょう性を高めたようになり
テーブルからは笑い声と「わかったよ」という声があがった
Aさんが少しばかり上気した顔で立ち上がり
幸せそうに微笑んでいる未踏と一緒に深々とお辞儀をすると
今夜一番の大きな拍手の波がコム・ゴギャンの窓ガラスと建物を揺らした
それでもいつもは10時半にはオーダーストップするコム・ゴギャンは
12時になってもまだ客が残り興奮の余波が残っていた
レスポワールの仲間たちが一人またひとり
お祝いの言葉を挨拶代わりに帰って行き
残ったのがGさんとクルーザーのキャプテン夫婦だけになったのは1時を過ぎていた
耳の不自由な奥さんは音楽を見ることができただろうか
興奮が次第に静まっていく
そのあいだずっとAさんと未踏は皆の前に居て客たちと話し続けた
実は
「もうひとつの宴」は疲れたであろう皆のことを考えた
ペンギン亭主の配慮で
特に仰々しいパーティが開かれたわけではなかった
それでも残った皆は
宴の後のゆったりとした甘い疲労感の中で
笑いあい語りあった
おそらく外にいる猛者たちを含めてこの一部始終を取り仕切っていたのであろう
あのひともともすれば皮肉な口ぶりも消えたまま
嬉しそうに祝いの輪のなかに座っていた
ほんの何日か前僕たちに起こった恐ろしい出来事の印象は
アップテンポで幸福そうなテンションにすっかり消し去られていた
けっきょく医師も未踏もアルコールを許してくれなかったが
僕はもう十分すぎるほど酔って
顔が風邪でもひいたみたいに熱くなっていたので
ちょっとその輪を抜けて個室側の廊下に出て窓を開けた
外の暗がりから
思いの外冷たい秋風が流れ込んできた
「年月(としつき)」という言葉が頭の中に
いや目の前の暗がりの中に浮かんだ気がし僕は泣いた
声を出して泣いたのではない
たくさんの涙を流したのでもない
外から見ることができるような泣き方を僕はしなかった
もし涙や嗚咽とは全く別に「泣く」ということの本質があるのなら
僕の泣いたのはそれだったのかもしれない
火照った頬と熱い口から冷えて静まり返った空気を吸い込むと
深いカタルシスを感じた
年月という言葉がもう一度浮かんで今度は僕の口をついて出そうになったとき
廊下に未踏が現れた
宴の輪のあるところ以外は明かりが落とされていたので
ドレスは黒っぽく翳っていた
「疲れたの」と未踏は聞いた
「いや」とだけ僕は答える
未踏はそれから手を伸ばして
僕の腕の下に自分の腕を滑りこませてから言った
「忘れないでね 私のこと」
まだ歌い続けた熱気が冷めやらないのか
未踏の身体から熱いものが
僕の脇から肩に這い上がるように伝わってきた
「なんで忘れたりするもんか
未踏じゃないか」
「私も」
そう言ってから未踏は僕の左の頬に顔を近づけて口づけた
それは今夜の僕たちの間に許された最大限のキスだったけれど
遠慮気味なものではなく
熱い息が耳まで届いた
「おめでとう 未踏」と僕は言った
「ありがとう 忘れないでね」
また未踏が繰り返したので「なぜそんなに」と僕
未踏は首を少し横に降ってから身体を離し
「行くわ」と言った
「ああすぐ僕も戻るよ」と僕が言うと未踏は僕に背を向けてから
「約束したわ」と言った
すぐ戻ることが「約束」しなければいけないほどのことなのか
僕にはわからなかったが僕は頷いた
未踏の姿がホールの方に消えたとき
風が涼しすぎたのか僕は身震いした
未踏はとても女っぽくなったと思う
それも外科医が冗談めかして言ったような「色っぽい」というのではなく
ダフネはもちろん未踏より年上のMにすら感じたことがない女らしさだった
結婚するってそういうことなのかなと僕は考える
いや同年輩の子で結婚したのは何人もいるけれどそれとも違う
まして未踏はAさんと生活を共にしてきたのだった
どういう女らしさだと言えばいいのか僕には分からなかったが
それは深々として重みのある熱いものだった
約束?
僕は未踏がさっき歌の前に言った言葉を思い出した
Aを愛する私の
あなたは死ぬまで私の恋人でいて頂戴
廊下に立ったまま
その言葉の意味を測りかね始めていた僕のところまで
輪に戻った未踏にダフネが「ダフネ ミトオ」と
はしゃいだように叫ぶのが聞こえてきた