僕が未踏に言いたかったことは
長い間続いてきた教師と生徒の関係を断てということだった
年齢の差もかえって
お互いに気遣いあうという距離感を作っているかもしれない
けれど年齢なんて千年の時間に比べれば
もしそれだけの理由があるのなら
束の間の小指の先の砂粒のように軽くはないか
邪魔しているのは
幼い歌い手を老練なピアニストが見出したというその成り行き
それからピアニストが歌い手を作り上げてしまったという成り行き
それを
お互いの気持から消し去ればいい
ましてAさんは腕は老練であっても老人ではない
それは僕が
言ってみれば張り裂ける思いで願ったことだった
ましてや未踏はただAさんの作品なのではない
未踏の
未踏自身のちからなしには成り立ち得ない作品だった
そしてその作品は
Aさんのピアノにだって何らかの影響を与えずにはいられなかったはず
つまり対等になるということだ
でも
世の中は複雑だ
いや本当はとても単純なのだけれど
それを皆が寄ってたかって難しくしてしまう
それも悪意の一欠片もない
優しい気持ちいっぱいで
こんがらがった糸
たった一本の
本当はまっすぐに二人をつないでいるはずの
ならばまっすぐにピンと張り詰めていてほしい
未踏は「ああ」と言ったまましばらく動かなかった
ダフネがその未踏の頬を
ギブスから出た指で触ったときも
でもダフネの指が未踏の涙の跡を何度もたどると
未踏の手がダフネの頭を抱き寄せた
未踏は理解しただろうか
僕から見れば分かり過ぎることだとしても
それは僕が未踏ではないからだ
未踏自身がどう思い定めるか僕にはまだわからなかった
廊下で何か動きがあった
あの人が静かに出て行き誰かと何ごとか話して戻ってきた
いつもなら間髪を入れない機転の話者は
しばらく言いよどんだ
僕はその数秒の言いよどみが終わるのを
死ぬような思いで待った
「彼は来ない」
そうあのひとは実に静かに
ものの見事に何の感情も含まない言い方で言った
未踏の肩が
ダフネが首に回した腕の下でぴくっと動く
『Aさん お願いだ』と僕は頭のなかで言う
そのまままたどこかにいなくなるなんて決してゆるさない
たとえあなたがいつまでもそんな放浪癖の人だとしても
「未踏」
僕が呼びかけるのと全く同時に未踏は立ち上がった
おかげでダフネがベッドに尻もちをつくほどの勢いで
「いいえ」
そう未踏は言った
「いいえ 来る必要はない
来ないなら私が行く それだけのこと」
それはどういう意味だったのか僕にはまだわからなかった
未踏はそれからダフネに顔を近づけて
ダフネの顔を抱き寄せ額に口づけてから
「ありがとう ダフネ ありがとう」と言った
歌っているときの
胸を張ってまっすぐに立つ姿勢で未踏は僕に振り向き
僕に近づきかけたが
ふっと我に返ったように言った
「K あなたへのキスはおあずけ
これから私は私のピアノを捨てに行く」
そう言ってからあのひとに向き直って言った
「一人では帰れません 今すぐお願いします
時間がないの」