真夜中のコム・ゴギャン(2) | 不完全な切り紙細工

不完全な切り紙細工

 誰も聴く人がいないのに歌いつづける歌がある
誰も見る人がいないのに踊りつづける踊り手がいる
誰も読む人がいないのに書きつづけられる言葉があって
不完全な切り紙細工を幾つも幾つもつなげていけば
そこに何かの絵が生まれるものと願う鋏がここにある


 それは僕の部屋にいて泣いていた未踏ではない
 ステージにまっすぐに立った未踏だった
 歌うときには決して物怖じしない
 歌い手の未踏だった

 ただ
 「時間がないの」と言った声は震えていた
 あの日
 悩みに悩んでAさんに打ち明けようと決めたとき
 Aさんはもう空の上をアメリカに向かって飛んでいた
 Aさんのいたアパートはもぬけの殻
 あのときの
 歯噛みするような思いが蘇ったに違いない
 もう二度と

 あのひとは何も言わずに頷いたが
 未踏はあのひとが動き出すのを待たずに部屋を出て行った
 薄くはない青いドレスの生地が
 空気を孕んで膨らんだようにさえみえる勢いで

 取り残されたダフネと僕は
 窓の外の鳥の声を聞いていた
 そのなかに微かに混じって遠ざかる車の音も

 思い出したようにダフネが
 誰もいない空間に向かって
 「おね・がい・しま・す」と言ったので
 僕はダフネの肩を抱いた

 しばらくして
 あのひとが戻ってきて
 「どんなことになるにせよ
  若いということは力だな」と言う
 「未踏さんの勢いを見ていると
  私なんぞいつ死んでも可笑しくないと思うよ
  いやいつ死んでもいいと」
 僕は何か言うだけの息が胸の中に残っていなかったので黙っていた
 けれどその最後の言葉には
 さざ波のような影があるのが見えた

 僕の言っていた「音の影」は未踏のとは少し違っていた
 未踏のは人というものをどうしても愛さずにはいられない
 あの未踏らしいセンサーのようなものだった
 けれど僕は
 僕が仮にそうだったとしても
 僕が見ている影は
 遠い倍音だった
 いや倍音のように正確に計算されてはいない
 ときに不規則な
 整数でない倍音になるもの
 しかも
 それだと聞こえる主な音とかけ離れた高さ
 あるいは低さの音だった
 未踏とは違って跳ね返ってくるのではない
 けれど感情的なものだという点では
 同じなのかもしれない
 まだよくわからない

 「ああ
  それから未踏さんには言っておいた
  今夜は歌えるようにしておくと
  そうなるかどうかは君次第だな K」
 僕が顔を上げたときにはあのひとは
 そそくさと出て行くところだった
 「Kの言葉が通じたかは
  それもいつものケ・セラ・セラだ
  私は太ったコックに看板を掲げろと言いに行ってくる
 嬉しそうな声だった

 あのひとにはあのひとなりの確信があるのだろう
 僕には僕の確信があった
 未踏はどんなことになっても
 今夜コム・ゴギャンで歌うだろうという

 あのときの
 悲嘆に暮れ声も出なくなった未踏はもういない
 まるで立ち枯れた木のようになっていた未踏
 もう二度とそれを繰り返すことはない
 そういう確信だった

 けれどそれは未踏の
 未踏としての生き方だ
 Aさんというピアニストがどう判断するかは別のことだった
 そして
 僕にはそれについての確信はない
 Aさんは僕よりも遥かに大人だったし
 奇妙に曲がって伸び上がった樹だ
 その大枝を感心して見上げている鼠みたいな僕に
 予想がつくはずもない

 「やれやれ
  まったくあの先生には呆れ返る」
 そう言ってドアにぶつかりそうな勢いで入ってきたのは外科医だった
 さっきは気づかなかったが徹夜明けみたいに無精髭
 
 「許可はおりますか」と僕
 「許可?
  そんなもの誰が出すと言うんだ
  Noとでも言ったりしたら
  あの御仁は軍隊でも連れてきそうな勢いだったぞ
  許可も医者の配慮も関係ないさ

  ただアルコールは駄目だ
  それに痛んでも俺は知らんぞ
  今度はがんじがらめのギブスどころじゃない
  耳もだ まだ完全じゃないかもしれん」

 「はい」とだけ僕は答える
 「『はい』? 随分とおとなしいな
  死にはしなかったにせよ あの大立ち回りの後で
  歌だって? まったく
  しかも同じ場所でか」

 それから広いガランとした部屋の向こう側の
 窓にかかっていたカーテンをバサッと音を立てて乱暴に引き開けた
 
 こちら側の窓にカーテンはとっくに開いていて
 ずっと光は入ってきていたのだが
 そちらの窓の外は色づき始めた木々に囲まれていて
 枝のあいだを光がくぐってきた

 ああ秋の光だと僕は思う

 「いいか おかげさまで 君のだ
  君のお陰でこの俺まで ご相伴にあずかることになったんだ」
 外科医は気恥ずかしいことでもあったような口ぶりで言った
 「ほんとうですか すばらしい」
 「『素晴らしい』? ああ素晴らしいよ
  歌を聴きに出かけるなんて何年ぶりのことか
  俺が鯰なら地震を起こすところだ」
 
 僕が声を挙げて笑うと外科医は真顔でこっちを見て
 「それもまだ若い あんな小娘の歌うたいの」
 それは明らかに僕を挑発してやろうという意図が見え見えで
 無精髭の中の口元が笑っていた
 
 「小娘 そうですね それは先生に比べれば
  でも未踏はもう小娘ではないと思います
  せいいっぱい生きることを覚えた女になったなと」
 そう僕が言うと外科医は言った
 「生意気なことを 自分はどうなんだ
  しかしまあ そうとも言えるな
  君に比べれば立派な大人だ
  震えながら毅然としているというやつだな
  それになかなか色っぽい
  君より歳下だとは思えないほどだ」

 僕は何も応えなかった
 そうかもしれないと思ったからだ
 人のことはともかく自分については

 「たった二年」
 そう僕はぽつりと言った
 それは未踏のニューヨークでの時間の長さだったが
 未踏と僕の歳の差でもあった

 
 夕方の6時
 あのひとが崖の上の家からもってきてくれた服に着替えて
 ダフネと僕はあのひとが運転する車に乗り込んだ
 きっちりした服は駄目だった
 肩から背中にかけてまだ硬い異物が突っ張っていたからだ
 ダフネのギブスはダフネの持っていた服の袖を通らなかったので
 ワンピースを片腕だけ通して着た
 誰かがコム・ゴギャンから持ち帰ってきたコート
 あの晩ダフネが脱ぎ捨ててきてしまったコートを
 それも片方の腕だけ通して羽織っていた

 秋
 もう辺りは薄暗くなっていて
 特殊な窓ガラスの目隠しなど要らなかった
 それにもう僕には
 ダフネにも
 この場所を隠しておく必要はない
 この区画が何のための施設なのかはますますわからなくなってはいたが
 自分が半アルバイトでシステム管理の仕事をしている
 観測センターから努力すれば歩いて到達できる場所だろう
 それに外科医も一緒なら
 今夜はまたここに戻ってくるのかもしれないと思う
 玄関を出るときに背の高い女性とすれ違ったが
 特に誰も挨拶を交さない
 それがここの習慣なのだろうと思った

 確かに未踏の言ったように複数の建物が点在していた
 僕たちの居た建物は高い塀と林に囲まれていたけれど
 その他の建物はそれほど居丈高ではなく
 秋の夕闇の中に静まり返っていた
 ほどなく車は広い道に出た
 道に出る出口のところを見ておこうと振り返ろうとしたが
 肩が邪魔して振り返れない

 車が広い道を滑らかに走りだすと僕は急に
 強い睡魔に襲われた

 どのくらい走ったか
 「もう着くぞ」
 というあのひとの声で目を開けると
 コム・ゴギャンはいつもの少し人通りを避けた場所で
 夜の飾りを付けて光っていた
 「にわか作りにしては良く出来ている」
 そうあのひとが言った「カンバン」は
 にわか作りではない
 まだ未踏がレスポワールで歌っていた頃
 その入り口に置かれていた
 チョークでその日の特別メニューと
 それから「今夜は未踏が歌います」と書いてあった
 あのメッセージ・ボードだった

 でも今夜遠くから見えた「特別な夜のコンサート」の文字は
 誰かが白い紙を切り抜いて作ったものらしかった
 車を降りて近づくと
 「レスポワールをもう一度とお考えの皆様に
  コム・ゴギャンが引き継ぐ覚悟です
  今夜はもしかしたら
  顔馴染みが集まるかもしれません
  そのためのスペシャル・ゲストがやってきます」
 一枚の紙にしっかりした筆跡の文字で書かれていた
 その書き方から考えて
 陽気なシェフ兼亭主が書いたものらしかった
 文字が少し踊っているように見えたのは
 僕の気のせいだったろうか

 入り口をくぐるときに振り返ると
 薄暗い駐車場や周辺の庭のそこここに人影があった
 皆ほとんど直立不動
 こうまでして
 やらなければならないことなのだろうかと僕はふと思う
 どこか静かな人のいないホールではいけなかったのか

 そしてそこまでして
 未踏の夜を用意してしまう
 あのひとの後ろ姿を
 少し恐ろしい思いで眺めていた