単刀直入には聞けなかった
だから
「そんなに聞こえるのだとしたら
自分の声は?」と聞くと
ほとんど予想していた答えが返ってきた
「影も聞こえる」
それは未踏の場合はおそらくはこうだ
あの声がホールに広がり聴く人たちに届く
その時に何が起こるか
もちろん皆が未踏を聴き
そして息を呑む
するとその微かな空気の流れで
反射して戻ってくる未踏の声の音に影ができる
息を吐いても
もちろん何か声を出せばそれも
未踏の声の影になる
ホールの壁に当たって戻る自分の声で
客の人数や服つまりは季節
そんなものが手に取るように聞こえると
でもそれは僕が言った音の影とは少し違う気がする
それではまるで海豚のソナーだと思う
未踏はコンタクトレンズを入れていた
外しているとき世界の見え方が変わると
プールサイドで言ったこともある
海豚か
ダフネは海豚のように泳ぐけれど
未踏はソナーを持った海豚
僕は急に人間の能力というものがどういうものなのか分からなくなり
「Aさんからはどんな音が返ってくるの?」と僕
未踏はしばらく下を向いたまま応えなかった
戸惑っているようには見えなかった
でも何度も胸の中で言葉をリハーサルしている
そんな感じがした
「幸せよ
幸せが返ってくる
Aは私の歌を聞いて幸せになる」
「Aさんが」ではなく「Aが」と言ったとき
僕はAさんと未踏の関係があの頃よりずっと近づいたのだと思った
それは
そうあるべきだと思って見送った僕にとっても良いことであり
そうなのだが
何かが予想と
期待と異なっていた
それは家族が家族を代表する者を呼ぶときに使う言い方に似ていた
夫であるのかもしれない
妻であるのかも
でも家長である父親
そういう人を呼ぶときの呼び方であるのかもしれない
問題はそのどれか
でもそれは僕が知るべきことだろうかと思う
もはやそれはAさんと未踏の問題であり
でも知りたかった
もう僕は男としては未踏を愛してはいなかったが
幸せにしているかどうかは
だがどうやってそんなことを知りえるだろう
僕が黙っているのを未踏はちゃんと聞いていた
聞いて
こう言った
「ありがとう
気にしてくれるのね
あっちでは学生たちが『プロフェッサーは奥さんを大切にしている』と
笑いながら言う
私にとても長い時間をかけてくれるのを皆が知っている」
そうか
プロフェッサー
僕たちが知っていたAさんはレストラン・バーのピアノ弾き
むろん優れた腕前をなぜかロイヤル・ステージにおいておけなかった人
でもあっちではプロフェッサーか
そして時間
長い時間を
僕はどちらかと言うと
愛の深さは費やした時間の長さだと思うほうだった
だからAさんが未踏に長い時間をかけるのは
それであるはずだと思う
「それはAさんが」
言いかける僕を未踏が珍しく遮って言った
「ピアノをやめるって言ったの
そう言って日本に行ってくるって」
僕は息の根が止まるかと思うほど驚いた
彼は日本でまた弾きたいと言ってバレの学校に現れた
気紛れか何かを考えてのことでない限り
そんなことはしないものだ
「私が聞いたからなの
私はあなたの作品なのって
私はあなたのもう一つのピアノなのって」
そう言ったとき未踏は眉を寄せ
怪我をして僕のところにやってきた夜のように息苦しそうだった
僕の目をあの日のような目で見て
「私がいけない
いけなかったの
そうなの」
僕は未踏の肩を抱いて言ってやりたいと思う
震えているのかもしれない肩を
『それだけ深刻に君の言葉を受け止めたからじゃないか』と
でも僕はそう言わなかったし
そうしなかった
答えがなかったからだ
ほかにどういうやり方があるというのだろう
未踏はAさんの『作品』だった
小さい時に出会ってからずっと
そして未踏は小さい時から誰かに依存していなければ落ち着かない
敬愛することがいつの間にか変質していったとしても
何がいけないというのだろう
そういう形だってあるのじゃないか
未踏はそれをわからないようなやつじゃない
わかっていて
それでもなお
だからAさんはピアノまでやめて
未踏に応えようとしているのか
そうだとしたら
それともAさんは未踏の歌を愛したが
未踏がAさんのピアノを愛したように愛しただけであると
思っているのだろうか
もしそれが最初の最初からなら
「ごめんなさい
Aは今朝ピアノを弾きたいって言って
あの方がすぐ近くにピアノのあるところを知っていて
私は戻ってくるって言ったの
戻ってあなたのピアノで歌いたい
今までと同じように
何処も何一つ違わず今までと同じように」
「Aさんは何て?」
そう聞いてからすぐに僕は後悔した
Aさんはそういうとき何も言わない人だと知っていたからだ
それに僕はもうその答えをAさん自身から聞いていた
「ねぇ未踏」と僕は言う
たぶん何日分ものエネルギーを費やして
「Aさんにピアノを返してあげな
もうAさんは君のピアノである必要はなくなったのだから
Aさんが捨てるのは君のピアノだけだよ
それを捨てれば二人とも楽になる」
もしかしたら未踏は追い詰められていて
僕の言うことを理解しないかもしれなかったけれど
ひどく誤解して打ちひしがれるかもしれないけれど
そして僕の言い方はあまりにも拙かったけれど
僕としては最善の
理解したかどうかはわからなかったが
未踏の顔には静けさが戻り
寄せていた眉は緩んだ
それから未踏は
「ああ」
とだけ言った