未踏の耳 | 不完全な切り紙細工

不完全な切り紙細工

 誰も聴く人がいないのに歌いつづける歌がある
誰も見る人がいないのに踊りつづける踊り手がいる
誰も読む人がいないのに書きつづけられる言葉があって
不完全な切り紙細工を幾つも幾つもつなげていけば
そこに何かの絵が生まれるものと願う鋏がここにある


 それから未踏は振り返って
 「私も音の影が聞こえると思う」と言った

 何ということだろう
 どうしてそれに今の今まで気がつかなかったのか

 未踏が僕の部屋に来ていた頃
 それはお互いの身体のための時間でもあったけれど
 いろいろな音の時間でもあった
 未踏はひたすら歌い僕は聞いた
 でも未踏も聞いていたのだ

 何の曲だったか忘れてしまった
 いや一度切りのことではなかったのだから
 どれと言うことでもない
 少なくともシンフォニーの一つだったのは確かだ
 未踏はベッドの上に起き上がって聴いていた
 聴きながら
 ヴィオラの位置はここから
 二本目のフルートはここ
 一本目の人を少し避けている
 ティンパニーはオーボエのだいぶ後ろ
 とってもホルンが多い
 そういう編成なの?
 多くてここからここまで並んでいる
 今のは何かな
 パーカッションだけど聞き覚えのない楽器だわ
 クラリネットの人は身体を揺らしながら吹いている
 そんなことを言い続けた
 ものすごく音の定位が正確だった
 いや音だけではなかったのかもしれない

 特に音楽的な家庭に育ったわけではない
 学校では合奏の時間は普通にあっただろうけれど
 シンフォニーのタクトを持ったことなんかあるはずがない
 そういう性格ではなかったからだ
 そして他の時間のほとんどはピアノだけを
 いつも自分から同じ位置にある
 たった一人の弾き手が弾くピアノだけを
 相手に歌ってきた

 生まれつきかと僕は聞いたが
 未踏の答えはそうではなかった
 小さいときから
 しかもあのレスポワールのフロアで
 客席に座って談笑し時には真剣に聞き惚れてくれる客たちの前で
 吐息や嘆息 ひそひそ話
 笑い声や時には口論も
 そういう音の中で歌っていた

 それが苦だったわけではないと未踏は言った
 いつも来てくれる客たちの
 その日の出来事や感情の波の中で
 歌うのが好きだったと
 そういう様々な心がでどこから未踏の歌を聞いているか
 いつの間にかそれを聴くようになって
 そうしてそれに応えようと歌ったのだと
 それは未踏の歌をよく特徴づけているように思った
 あれほど歌に夢中なのだが
 歌のためだけに歌を歌っているのではない

 海と同じなの
 波や海猫 ブイに当る波
 ヨットの帆に当る風の音
 目をつぶっていても
 どういう体つきの人が歩いてくるのかもわかったと

 未踏の世界は狭かった
 港と岸壁とレスポワールのホールと
 後はよく泳ぎに行って誰もいないのを幸いに歌ったプール
 それから僕の部屋
 その中で定位能力が研ぎ澄まされていったとしても
 なんの不思議もない

 だからKの息遣いを聴きながら私は歌っている
 そう未踏は僕の目をあの目で覗き込みながら言ったものだった

 「でも」と僕
 「岬に近いというのなら僕にも少しはわかるかもしれないけれど
  林に少し入ったところだというのは」
 「とても簡単よ
  返ってくる音を聴いていれば
  硬い街の中なのか海の側なのか
  林の中では音が細かく揺れて返ってくる
  他の車の音も遠ざかるし鳥がいる」
 「四角い建物が幾つもあるというのは」
 「丸い形と四角い形では返ってくる音に違いがある
  車が何度か四角い平たい壁の前を通り過ぎた
  そう言えば途中でドームみたいに円い建物があった
  ドームハウスなのかと思ったけれど
  木の壁ではなく硬かった」
 「人の出す音だけじゃないんだね
  わかるのは」
 「そうかも
  四角い建物は車から降りたときに確かめたし」
 そう言って笑った

 二年ほどの年月離れていたとは思えなかった
 いや離れていたからこそ
 気づき直したことだったのかもしれない

 四角い建物
 ドーム
 林
 岬の近く

 もしかして?

 そう思ったとき待ち構えていたようにあの人が言う
 「そう ここまで見通されればKならわかるだろう
  言うまでもないことだろうが
  ここは君の仕事場の連中が
  『時間起源研究センター』と呼んでいる一区画の中だ
  観測センターからはこの建物は
  天文台と林に隠れて見えないが」

 灯台下暗しとはよく言ったものだ
 しかも本当に実物の灯台も近くにあるはずだった

 でもそれを今は追っかけていられなかった
 もう一つ未踏に聞いておきたいことがあったからだ
 未踏にとってたった一人のピアニストが現れる前に