月光樹 | 不完全な切り紙細工

不完全な切り紙細工

 誰も聴く人がいないのに歌いつづける歌がある
誰も見る人がいないのに踊りつづける踊り手がいる
誰も読む人がいないのに書きつづけられる言葉があって
不完全な切り紙細工を幾つも幾つもつなげていけば
そこに何かの絵が生まれるものと願う鋏がここにある


 この樹の香りは甘く強い
 甘さはやさしいのだが
 葉の
 濃く暗めの緑の匂いは鼻からぬけて
 直接に脳に届きそうなほど強い
 ローリエは香辛料でもあるのだけれど

 女のような甘さと
 男のような強い匂い
 二つが分かちがたく解け合っている

 どういうわけか
 僕が住んだいろいろな場所には
 気づくと月桂樹が生えていた
 葉の形はそれほど特徴がないせいか
 すぐにはそれと気づかない
 庭などを歩いていて
 ふと木肌に手を伸ばして気づく

 ああ
 お前だったのか

 長い間倚りかかって
 その香の中にいたことも
 ときには
 足を伸ばして座り
 幹に背を預けたまま何時間も寝ていたことも
 ある
 父のような母のような樹だ

 どう言ったらいいか
 あまり科学的な話ではないと思うのだが
 この樹の匂いは
 月夜に特につよく薫る気がする
 月が出ている晩に僕が歩くのか
 あるいは気ままに散歩できる季節の或る夜に
 月が出て
 たまたま僕がこの樹の傍を通っただけなのかもしれない

 そういう夜の空漠とした静けさが
 この樹の匂いを引き立ててしまう
 あるいはまた僕の方が
 他の樹より少し近づいて
 傍を通りたがったのかもしれない

 鼻腔に満ちる
 香りは高く立ち昇って
 まるで月に届こうとしているかのようになる
 きっとこの樹は月に焦がれ憧れて
 月に届くようにと
 一際つよく
 香りを立ち昇らせるのだろうと

 樹にとって香りは触手であり
 唇であり乳房でもあるのだと
 それに月が応える夜には
 香りが光に照らし出されて
 ゆらゆらと目に見えるようになる
 目に見えぬはずの匂いが
 光と化学反応を起こして
 ゆらめく光になっていく

 月夜に浮かび上がる香りの樹は
 匂いと光が交わって生まれた
 月交樹
 いやあるいは
 月光樹
 そう呼ぶのがとてもふさわしいと思うのだ

 それがどういう愛の形なのか
 今もわからない
 けれどそれは確かに一つの愛の証しなのだと
 僕は信じて
 疑ったことがない