なんだか僕は
これからの人生をずっとダフネを探して歩き続けるのではないかと
それだけ僕にとっては
運命的な
致命的なほどの子なのだという感覚が急に湧いてきて
ダフネを失うという恐怖と一緒くたになって
僕をくらくらさせた
その時だった
コム・ゴギャンは元からだったのか
いろいろと建てましたのかわからないけれど
大文字のアイの形をしていた
アイの縦棒は多くのテーブルが並ぶ大部屋で
横棒部分が幾つかの小部屋になっていた
小部屋のある部分は二階建てになっていて
僕たちの部屋の上にも部屋がある
僕たちはアイの上の横棒の北側
裏庭側の部屋にいたのだが
アイの下の方から
アイの下の横棒の小部屋はここからもよく見える
その周辺から
ざわめく人の声が上がった
「え
マイクロフォンが入りっぱなしになっているのか」と亭主
アイの縦棒の中央部分
つまりは店の真ん中付近にレスポワールのピアノがあった
そこから入り口よりに司会者用なのかマイクが立っていた
演奏はする予定がないと言っていたけれど
でもマイクは用意するんだなとさっきダフネを探して
通り過ぎたときにそんな意味のないことを思った
ざわめきはその辺りなのか
窓から見ると何人かの人が向こうの窓から外を
こちらの方を見上げている
僕はとっさに小部屋の
桜の庭に面したドアを開けて
外に飛び出した
ざわめく人たちが見ているのは
僕たちのいた小部屋部分の二階の
屋根の方だった
屋根の数ヶ所に桜の庭の方をライトアップするための
証明が備え付けられいる
桜が咲いていなくても
庭が真っ暗にならない程度の照明が点けられている
花の季節にはこの照明が
踊るダフネを照らし出したのだろう
今は
その照明の前で屋根の上をうろうるする人影が
庭の地面に影絵のように映し出されていた
コートは着ていなかった
光の前に居るので顔は暗くて見えない
けれど
白くすんなり伸びた素足は
照明の中にくっきりと見え
それから
ふわりと広がった腰辺りのチュチュは
まるで昼間の空が
そこにだけスポットされて現れたみたいに
光を透過して青く光り
お尻の形が影になっていた
その影絵に気づいた客たちがざわめき始めたのだった
まちがいなくダフネだ
どうしてそんなところにいるのか
「ダフネ」と僕は大声で呼ぶ
ダフネはビクッと痙攣したみたいに身体を反らせる
「危ない」
そう言ったのは亭主だった
「梯子を登っていったのか」
「梯子?」と僕が聞く
「はい 屋根と照明のメンテ用でして
でもいつもは下の部分は持ち上げてあるんだが」
ダフネは明らかに戸惑っていた
高い所は嫌いではない
いやむしろ好きだと言ってもいいほどだ
崖も二回のベランダの手すりの上も
ダフネには楽しい場所
でも今は違った
ダフネはこっちに行きかけては
あっちに戻るといったふうで
しかも時々バランスを崩しそうになる
僕は梯子の方に走りながら
ちょうど庭に出てきたAさんに言った
「ピアノを
ピアノを弾いてください
ダフネが踊れそうな曲を」
梯子の下の部分は使わない時のように
上に持ち上げられていて
僕が梯子を使ってダフネのところまで行くには
時間がかかりそうだったのだ
その間にダフネがもっとひどいパニックを起こせば
ダフネはそこから飛び降りるかもしれない
Aさんは僕の声を聞くと何も聞かずに
そのまま戻りピアノの所まで走って行ったのだろう
僕が梯子の下部分を引き下ろそうとしていると
ピアノが聞こえ始めた
梯子は庭に面していないのでダフネの影絵は見えない
その代わりにときどき
白い足とチュチュの端だけが下から見える
その動き
ぐらぐらと揺れていた
もう登っていたのでは間に合わない
僕は梯子を何とかするよりダフネの落ちてきそうな
位置で待つべきなのかもしれないと迷う
ピアノはAさんが強く弾いているのか
それとも傍のマイクロフォンのせいでか
庭いっぱいに広がって聞こえ始めていた
迷いながら聞いたその曲は
「あの曲を?」と僕は思う
こんな曲を
でも確かに
それにダフネは反応するかもしれなかった
曲を聴き
パニックが治まれば
ダフネのバランス感覚ならばそう簡単に
屋根からは落ちて来ないはず
ふわりとチュチュが回ったのが見えた
それは少なくとも2度ターンした
僕は庇のすぐ斜め下にいたのだけれど
くるくるとターンするチュチュを見て
ダフネが踊り始めたと直感する
屋根の上がよく見える位置まで下がると
ダフネの片足が舞い上がるのが見えた
『Aさん やっぱり貴方は天才だ』と僕は胸の中で言う
ダフネは自分が何処にいるかおかまいなしに
曲に合せて踊り出したのだ
その影絵も庭の地面の上でくるくると踊っているだろうか
ざわめきはもっと大きく
驚きと賞賛の声に変わりつつあった
そりゃあそうだ
屋根の上の踊り子なんて聞いたことがない
僕の位置から見えるダフネは
チュチュから生えた二本の白い素足
でも
ときどき腕を高く持ち上げながら前屈みになり
そのときだけダフネの顔が見える
表情はわからなかったが
首の動きを見れば
ダフネがしっかりと
いや夢中になって踊っているのがよくわかる
もうずいぶんとダフネと一緒にいたけれど
こんな光景は見たことがなかった
円形に広がる照明の光の中で
ダフネは踊っていた
なんと美しい姿だろうと思う
夜の空を背景に
光の中の踊り子のシルエット
まるでダフネが裸で踊っているかのように
シルエットはくっきりと身体の形と動きを
浮き上がらせている
今はダフネの傍まで行かなければならないときなのに
僕はダフネの踊る姿を
見続けていたかった
できることなら
このままずっと
でもそんなことをしていたら
いくら踊ることに夢中になっているダフネであっても
どこかで集中力が途切れるかもしれない
そうなれば
致命的なことになる
でも
僕はなおも戸惑っていた
どこに居て
あるいは何処まで行ってダフネを捉まえるかではなくて
このままダフネの踊る姿を眺めていたいという欲望と
ダフネの安全を確保しなければという思いの間で
とんでもない
選択にならないはずの
ダフネの安全が絶対優先であるはずの
状況なのに
でも
それほどにダフネのシルエットは美しく
それは今までの日々の
ダフネのさまざまな姿を思い起こさせた
もし
ダフネが落ちて死ぬようなことになるのなら
僕もその下に居て死んでもいいか
いや死ななければならない
そんな意味のない思いが頭の中を駆け巡っていた
それからダフネがまた片足を上げ
両腕で輪を作って前屈みになったので
ちょうど顔が見え
その目が僕を見た
ダフネの目が実際に見えたわけではないので
そう感じただけだったのかもしれない
でも一瞬
ダフネのシルエットの
スムーズに連続していた動きが
ほんの少しの間だけ止まった気がした
僕が梯子にジャンプしてでもダフネのところまで行こう
そう決めて走り始めたとき
視界の隅に昇ってくる月が見えた気がする
でもそれを確かめる余裕はそのときの僕にはなかった
タイヤがパンクしたみたいな
乾いた「パンッ」という音がして
それから客たちの声が悲鳴に変わり
動きを失ったダフネが
宙に舞い
投げ捨てられた藁人形みたいにふわりと
屋根の上から僕の方に降ってきたからだった