過ぎていく時間 | 不完全な切り紙細工

不完全な切り紙細工

 誰も聴く人がいないのに歌いつづける歌がある
誰も見る人がいないのに踊りつづける踊り手がいる
誰も読む人がいないのに書きつづけられる言葉があって
不完全な切り紙細工を幾つも幾つもつなげていけば
そこに何かの絵が生まれるものと願う鋏がここにある


 空の何処かで風が遠い唸り声をあげ
 僕は眠れない夜を過ごした
 さまざまな出来事が頭の中を行き来して
 閉じたはずの目はいつの間にか開いて天井を眺めていた
 ダフネはずっと僕のベッドの中にいたが
 棒のように身体を延ばし
 まっすぐ上を向いたまま眠っていた
 起き上がって窓を開けると
 妙に生温かい湿った風が吹き込んできた
 僕は窓に寄りかかって
 ただ時間が過ぎていくのを待っていた

 夜明け前の薄暗闇の中を数人の人が
 緩やかな列を作って西の方に歩いていくのが見えた
 庭をだったのか 
 それともフェンスの外の空中をだったのか
 僕にはわからなかった
 でもその人たちの顔には皆見覚えがあった
 微かな笑みを浮かべ合い
 ときどき何事か小声で言葉を交わし

 でもそれはきっと僕が目覚めて見た夢だったに違いない
 
 日が昇り始める頃
 僕はダフネをおいたまま
 着替えて一階に降りコップ一杯の水を飲み干し
 椅子に座ったまま
 天窓から差し込んでくる日の光が
 徐々に角度を変えるのを見ていた
 何のために僕たちは息をしているのだろう

 やがて起きてきたあのひとは僕を見て言った
 「眠れなかったのか」と
 僕は頷いたが「はい」とは言わなかった
 「ダフネは眠っている?」
 「はい 疲れたのでしょう」と僕
 「ちょっと僕のところに行ってきたいので
  ダフネをお願いでできますか
  夕方前には戻ってきますから」
 「引っ越す気になったかね」とあのひとが言う
 僕は「いいえ」と答える
 でももうほとんど喉のあたりまで
 「そうします」という言葉が出かかっていた
 それを呑み込んで「少しだけ片付けておこうかと」と言う

 でも自分の部屋に着いて
 閉め切ったままになっていた雨戸を開け
 光を入れると
 もう何もする気がなくなっていた
 ほんの少しだけ
 体裁を整えるために幾つかのものをしまい込んだだけで
 気力が尽きた

 Mはもう目的地に着いただろうか
 
 明日になれば僕はこの部屋にAさんを連れてくる
 そう決めたのだから
 今更何にこだわることがあるだろう
 僕は丁寧にベッド・メーキングして
 自分の枕は押入れに放り込む
 「枕だけは買わないと」とAさんには言おう

 そこまで考えて
 僕は少しふっきれた気持ちになった
 何だか身体が重いので
 床に仰向けに寝転び
 そのまま眠ってしまったらしい
 誰かがドアをノックする音が聞こえたような気がして
 跳ね起きた時にはもう昼近くになっていた
 
 ドアを開けて見たが誰もいなかった
 誰かが居るはずもなかった
 誰が来ると思っていたとというのだろう
 仕方なく僕は戸締りをして
 薄暗くなった部屋をもう一度見回して部屋を出る

 崖の上に戻るつもりで走り出したのに
 いつのまにかバレの学校の前まできてしまっていた
 ダフネを連れてこなかったのを後悔したが
 校長としばらくおしゃべりしてみるのもいいかと
 僕の顔を見ると校長が「ダフネは?」と聞く
 「まだ眠っているみたいで」と僕
 「おやおや 車の中なの」
 「いえ まだダフネは家です」
 「あら そうなの」と校長は少し落胆したように言う
 「すみません」と僕
 「謝ることはないですよ
  チュチュがさっき届いたので合わせてみるかなと思っただけですよ」
 「速いですね」
 「そう? おととい電話したんだから普通」と校長
 「え おととい 僕が電話でお願いしたの昨日ですよ」
 「あら そうだったかしら まあそうだとしても
  うちはお得意様ですからね」

 校長が持ってきてくれた練習着一式はほとんどが白で
 シューズもほんのりピンクがかっていたけれど
 ほとんど白く見える
 チュチュだけが鮮やかな青だった
 「わあ ずいぶん鮮やかな青ですね」と僕
 「え そうかしら そんなでもないでしょ」と
 校長は廊下の証明にかざして見て
 「そんなでもないですよ ダフネは色が白いから
  このくらいでないとポイントがなくなると思いますよ」
 僕はそれ以上言わなかった
 それもそうだなと思ったから
 「ありがとうございます ダフネも喜んでくれると思います」
 「じゃあ もって帰って着せてあげてちょうだい
  これ請求書 お金はまた今度でいいですから」

 一そろい紙袋に入れてもらって礼を言う
 「そうそう あの変わったピアノ弾きさん
  昨日弾いてもらうことに決めましたよ
  あなたも会った?」
 「ええ はい 会いました
  決まって良かったですね」と僕
 「まあどういう人だかわからなかったので
  あのかたにお願いしてしまったけれど
  結局よかった
  そうそう Mさんにお願いしようかと思ってると言いましたけど
  またもう暫くしたらお願いしますね」
 「Mなんかよりずっと上手い人ですから」と僕
 「おや お家でもう弾いて聞かせてくれたの?
  そう 上手いと思いますけど」
 「けど?」
 「いえね 何だか
  こういう場所にはそぐわない感じが少しするというだけ」
 どうやらAさんは僕とのことは言わなかったらしい
 あるいは
 僕がダフネをここに連れて頻繁にやってくるのだとは
 知らなかったのかもしれない
 いずれにしても

 もう一度僕は礼を言って車に戻る
 別れ際校長が後ろから言った
 「もうそろそろ またダフネをもとの習慣に戻しましょうね」