崖の上の家に戻ったとき
見たことのない光景を目にした
いつ目覚めたのかわからなかったが
ダフネはリビングのお気に入りのソファに寝転んでいた
そのダフネの頭の横にあのひとが座って本を読んでいた
このソファにこの二人が並んでいることなんて
今まで一度もなかったことだと思う
面白いことにダフネがときどき
あのひとが左手に持った本に手を伸ばし
見開きのページの間に掌を差しこんで
あのひとの読書を邪魔していた
普通の子なら祖父の読書をこんなふうに邪魔して
構ってもらいたがることはあるだろう
でもダフネには今までそういうところはほとんどなかったのだ
掌で邪魔をするダフネにあのひとは
「Ne Ne」と言ったが手を払いのけはしなかった
代わりにダフネの手がそこにあるのを承知で
自分が読んでいる本をパタンと閉じ
ダフネの手を軽く挟んでしまう
するとダフネはしばらく挟まれたままにしているが
あのひとが本をもう一度開くと
ダフネもおとなしく手を引っ込めるのだ
その不思議な『遊び』は
僕が帰ってきて二人の前の椅子に座ってからも
およそ3分おきぐらいに繰り返されていた
「本読めないでしょうに」そう言うと
あのひとが笑って言う
「多忙な生活を経験した人間にはこのくらい短い隙間だって
十分な時間なのだよ」
そう言われてみると
ダフネの手が引っ込んでいる
およそ3分の間にページは確実に読み進められていた
「煩わしくないんですか」そう聞くと
「遊びが煩わしい人間はいない」とあのひとは笑う
「遊び? ダフネはともかく」
「いや私は楽しんで遊んでいるのさ
むしろダフネのほうが遊んでくれているのかもしれん」
ダフネが遊んでくれているという考えは不思議な気がした
ダフネのような子どもたちは他の人の遊び心なんて
理解できるのだろうかと思う
ましてや『遊んでくれる』ことなんて
いやダフネにそういう優しさがないと言うのではない
そういう気持ちのやりとりみたいなことが
ダフネにとって当たり前のことなら
ダフネは普通の子になれるはずだと僕は思う
あのひとが本から目を上げて言った
「K 君だってダフネに子守唄を歌ってもらったろ」
そう言えばそんなこともあった
それにしてもこの『手のやりとり』は
幸せな老人と孫娘のそれのようだった
僕の胸の辺りにふっと温かな感情が湧いてきたとき
不思議な声を僕は聞いた
「くくく」と「きゃ」の混じったような
手を挟まれたダフネが笑い声をあげたのだ
僕ははっきりと胸が熱くなるのを感じる
Mの離日以来ダフネには
不安というか硬い緊張感が広がっていた
それをあのひとはこんな形で
解きほぐしてしまったのか
「もう2時間近くもダフネはこうしているのだ」とあのひとが言う
2時間もなのか!
僕は青いチュチュを出し損ねていた
この『手のやりとり』遊びを妨げる気にならなかったのだ
でもその機会はダフネの方からやってきた
何かを思いついたみたいに
ダフネは立ち上がり僕が手に持った紙袋の中を軽く覗き込み
それから手を袋の中へ
正直なところ僕は少し焼き餅を焼く気分だった
僕にはしてやれなかったことを
あのひとが易々とこなしてしまったことに
でも
あのひとにはダフネみたいな子どもたちの経験が数多くあったのだから
そしておそらくは僕自身も
いつかこうしてもらったのだったかもしれない
ダフネが手を紙袋に突っ込んだ瞬間
僕はポンと紙袋を両手で挟んで
ダフネの手が抜けないようにしてみた
ダフネは少しも驚いた様子もなく手を動かさない
同じ?
そう思って僕が片手を離すとダフネが手を引っ込める
人の真似も時にはこんな素晴らしい結果をもたらすものなのだと思う
3分も待たずにダフネがまた手を紙袋に突っ込み
そうやって幸せな『手のやりとり』が再開され繰り返され
何回目かにダフネの手は練習着をつかんで引っ込められた
白い服に鮮やかな青のチュチュ
ダフネの目は誰の目にもはっきりわかるほどキラキラと輝いて
そのままそれを持ってキッチンに走って行った
たぶん着替えるつもりなのだ
人前で裸になっても気にしないダフネが
わざわざキッチンに行って着替える?
僕は黙ってダフネを目で追いかける
ダフネの中で何かが変わってきたということなのか
ふっとそういう期待が膨らんだけれど
僕はあまりロマンティストではないらしく
これは学校では練習着を更衣室で着替えるという
躾に従っているだけなのかもしれないと思い返す
そんな僕の小さな落胆を見透かして
あのひとが目を細めながら言う
「習慣はただ習慣だというだけではないものさ
繰り返しゆくことが命を形作るのだと私は思っているよ
ただ無意味な繰り返しだと思っていることの中で
小さな前進がある セ・ラ・ヴィ(それが人生)」