乾いた音がして
明るい黄色のフロアリングの上に
トゥ・シューズが落ちてきた
薄青のリボンがふわりと
シューズの上に折り重なる
どこから?
わからない
でもそれはダフネのものだった
ダフネの白い足が見えたから
それからすぐ近くで
教会堂の鐘が鳴った
定時の天使祝詞の鳴り方とは全然似通っていない
不規則に興奮したように繰り返し鳴らされている
「Kちゃん 聞いてる?」と
Mの母親の声がして
僕は雨上がりの夕方のMの家のリビングに連れ戻された
「どうしたの 何か考え事?
焦点が合っていないわよ」
まるでMのような言い方だ
そう言えば声もよく似ている
それから僕はテーブルの向こう側でこっちを見ているMに気づく
声は僕の横からだ
母親の言葉に答えずに僕はMに言う
「帰ってきたの いつ?」と
Mは不思議そうに僕を見返したが何も言わない
「Kちゃん 昔のまんまね
その『どこかに行っちゃう癖』」とMの母親が笑いながら言う
「ほう」とあのひとの声が僕の後ろから聞こえる
「お母さんもそうだった
私が話していることなんか知らん顔してね
いつも片想いさせられた」
「ほう?」とまたあのひとの声がした
今度は少し詮索するような響きが感じられた
「考え事? Mを連れていかれたくないのかしら
それとも残念なことにまた別のことかしら
でもとにかく大きくなったけど変わらないわね
今は無茶苦茶走り回ったりしないのでしょうけど」
「お母さんはK君をよくご存知なようだ」とあのひとが口をはさむ
「よく遊びに来てましたから
Jがあなた方と街で出会ってからは
それまではあなたが生まれたことも知らなかったけれど
この娘を産んでから半年くらい後だったわよね
Kちゃんの誕生日
それも後から知ったのだけど
数年以上も音信不通だったから
すっかりツムジを曲げちゃったのかと思っていたら
そんなことまったく覚えてもいないふうで
Jと私が買い物に出かけたときに
Jが突然大きな声で
『あの人だ この間Mがすっ転んだときの』と指差したのが
お母さんだったのよ
本当に驚いた
しかもあれはあなた方が旅行か仕事かで
たまたまこっちに来てたときだったから
偶然が重なって
もう大騒ぎ
それでここに連れてきて積もる話
そうしたら呆れたわ みんなでまた
だってKちゃんのお父さんとJが知り合いだってわかったから
それからは機会がある度に遊びに来てたわ
でも二三年の間だけだった
お父さんは一度もここには来なかったのよ
忙しい人だったわ
そうしてそれからまた十年以上も
たまに来る手紙ぐらいしかお互いを知るすべもなくて
ほとんどが旅先からの手紙だったし」
その長い思い出話のあいだ中
ダフネはくるくる踊りながら立ち止まっては笑いながら僕を見た
じっと僕の方を
珍しいことだった
ダフネはいつもが余り表情豊かということはなく
まれに笑った時でも何を喜んでいるかがすぐわかった
と言うか
明らかに喜ぶような状況になったから
ダフネが笑っているのだとわかったと言った方が正確かもしれない
でもこの夕べ
ダフネがなぜ笑顔でいたのか僕にはわからなかった
消えたMが戻ってきたからか
それならもっとMにくっついていてもよさそうなのに
落ち着きなく動き回りながら
それなのにずっとダフネは僕を見て笑っているような気がした
しかもその笑みは
これもまた珍しいことに
どこか自信にあふれた笑みに見えたのだ
『私にはわかるわ』とでも言い出しそうに
でもダフネは相変わらず口では何も言わなかった
「そのことはMさんには話されなかった?」と
あのひとが聞いた
「言葉にしなければ思い出は美しいままになるから
かな
と言うより
Kちゃんが大学に入った頃は
もうJは」
とMの母親はちょっと遠くを見るような顔つきになった
多分もうその頃には
J先生は母と娘をおいて出て行ってしまった後だったのだろうと思う
「この娘ったら余り大学のことを話さなかったし
この娘が決めたことをとやかく言うつもりも私にはなかった」
「不思議なこともあるものだ」とあのひと
「ほんとうに」とMの母親が溜め息をつくように言った
「つながりがあるような無いような縁ね
その最終章はこの娘がKちゃんに出会ったこと」
Mはじっと母親の話を聞いていて
一言も口にしなかった
涙はもう消えていたが何を考えているのかはわからなかった
ただ「最終章」という言葉には目がぴくりと反応した
それからMの母親は
思いついたように僕に向かって
「Kちゃん あなた Mのこと」
そう言いかけたときだった
Mが遮るように言った
「黙って お母さん
もういいから」
でもその声は強くなく
やっと懇願できたというように弱かったが
Mの母親は「そうね」と言っただけで黙る
あのひとも何も言わなかった
ダフネだけが違った
ダフネは踊るように歩き回っていたが
Mが喋ったのを聞くと
昼間僕があのひとのお喋りを遮ったときのようにぴょんと跳び上がり
それからMに近づいて
座っていたMの首に後ろから抱きついて
「M M M」とMの顔に頬を寄せて言い始めた
「あら ずいぶんと愛されちゃってるのね M」
とMの母親が穏やかに笑いながら言った
「昔から女の子にはもてるのよね M」
母親はそうやって「M」と呼びかけているように思えた
「ほんとうに仲の良い姉妹のようでしたよ」とあのひと
Mが少し笑ったように思えた
でもそれがはっきりわかる前に
僕たちは皆
Mさえもが振り返ってダフネの顔を見つめた
ダフネが誰にもわかるほどはっきりとこう言ったからだった
「僕はMと一緒にいたいよ」