ダフネが「僕はMと一緒に居たいよ」と言ったとき
その部屋に居た人たちはそれぞれに
違った理由で驚いたのだと思う
でも皆が驚いたというそのことは共通だったに違いない
今までもダフネは片言で日本語を話すことはあった
しかしどれも1歳半かそこらの小さな子どものように切れ切れの単語だった
僕たちはその切れ切れの単語を
その場の状況と考え合わせてダフネの言いたいことを推し量る癖がついていた
Mの母親はそうではなかったろうが
多少とも人を見る能力がある人なら
この数時間の間にダフネの状態に気づいたろう
あの人だってダフネのことをMの母親に説明したかもしれない
だから多分Mの母親もダフネが日本語の「文」になった発言をしたことを
予想外なこととして受け止めたのではないかと思う
ダフネがMのことが好きなのはダフネの行動からも分かることだった
でもMと一緒に居たいとわざわざ言わなければならないのは
どこかでMが去っていくかもしれないと感じたからだろう
そのことをいつダフネは気づいたのだろう
言葉は十分通じなくても分かることはある
直観みたいなものがそう言わせたのだと
「僕」と言ったのは
何もダフネが自分を男の子だと思って言ったとは限らない
日本語で自分を指す言葉が「僕」だと思ったということは十分考えられる
この数ヶ月
ダフネが最も長く接していたのは他ならぬ僕だったから
そんなこんなだからMが振り返り
ダフネの顔を見つめながら
「ダフネ あなた 日本語・・・・」と言ってその先が続けられなかったのも
どういう意味で言ったのかが分かる気がする
けれど少なくとも僕には
そのときダフネのその言葉を聞いたことは
ほとんど頭を棍棒で殴られたか
胸に何かを突き刺されたような痛みを伴った驚きだったのだ
だって「僕はMと一緒に居たいよ」というのは
誰あろう
この僕がほんの少し前にMに言おうとして
でもMの選択を誤らせたくなくて
結局言わなかった言葉そのもの
言い方までが同じだったからだった
まるで言えなかった僕の言葉を
ダフネが敏感に感じ取り
僕に代わってMに直接語りかけたと
そういうふうにしか僕には感じられなかったからだ
僕の言葉を感じ取り
それを僕に代わって
しかも日本語で
「僕」という主語で
その感じ方は
さっきまで僕が
目を醒ましたまま見ていた長い夢の続きなのだと考えれば
何の不思議でもない出来事のようでもあった
身近にいたはずのMが急に居なくなり
そして僕はダフネと当ての無い旅をしている
その寄る辺ない旅の中で
ダフネと僕は一心同体になる
そうならば僕の想いを
ダフネが口にすることだって
あることなのかもしれない
でもそれは僕のなかにしかないはずの幻だった
それをダフネが共有する?
でも
でもだ
まだ他にも「でも」がある
なぜ言葉が不自由とも言えるようなダフネが
言葉を普通に話せる僕の代弁をしなければいけないのだろう
逆ならわかるし
そして実際そのようにして数ヶ月生きてきたのだと思う
でも今起きていることはそのまた逆
そんなことを一瞬で考えて僕は胸が痛んだ
何が悪いとか悲しいとかじゃない
そういう評価とはまったく違う感覚だった
おかげで僕は言葉を失い
何ひとつ言わずにダフネの方を見ているしかなく
だからその後で
皆がダフネを見ているなかで
Mがゆっくりと僕の方を振り向いてこう言ったとき
また僕は動転した
Mはまっすぐ僕を見てこう言ったのだ
「Kちゃん ありがとう
私 必ず崖の上の家に戻ってくる」
そうMが言うと
あのひとがまるで何か面白いお芝居を見ながら誰にともなく言うように
また「ほお」と言った
Mの母親は
Mがそう言った意味が今ひとつピンとこないように
ちょっとだけ笑った
家に入ってくるときから僕がMに話していたことへの
返事を今したのだと受け止めたのかもしれない
ダフネが日本語でちゃんとしたことを言った驚きも無視して
Mが自分の言いたいことを僕に言ったというふうにも受け取れたろう
そうだとしたらきっっとMの母親は
Mのそういう態度を少し身勝手というか自分のことばかり考えていると感じて
それが僕に対するMの気持ちだとわかっていても
素直には喜ばなかったと思う
それがあのやや中途半端な笑い方になったのだろうと
いや
あるいはMの母親は母一人娘ひとりの時間が何年かあったので
今はほんとうにMと一緒のイギリス暮らしを望んでいるのかもしれない
でも僕にはわかった
明らかに
どうしてかはわからないけれど
Mは明らかにダフネの言葉を僕の言葉と理解して
僕の方を向きそう言ったのだと
ダフネが日本語で喋ったことを軽んじたり無視したのでは
決してないと
それも僕を半分驚かせた
なぜそんなふうに思うのだ
僕はダフネにそう言ってくれなっどと頼みはしないし
自分で言うべきことは僕が言うのにと
そのことだけでもまず言いたかった
そういうわけで
まるで舌が麻痺していたみたいな僕が
Mの言葉に動かされて
「M」と口を開いたとき
ダフネがまた言った
「Mと一緒 僕うれしい ダフネうれしい」
またあのひとにもMの母親にも驚きの色が浮かんだ
僕はおそらくもっと驚いていたと思う
でもMはそれを聞くとダフネに振り向いて
ゆっくりと一語一語区切るように言ったのだ
「同じ・よ 私・も ダフネ・と・同じ」
ダフネはそれを聞くと
右腕を長く伸ばしてから
まるく弧を描くように曲げ
それから片膝を床について
頭を下げ
一曲を踊り終えたときのように
少し照れたような
でも誇らしげな表情で微笑んだ
僕は何だか
周辺からたくさんの人が拍手しているような気がしてならなかった