車を運転しながら
あのひとはMの母親の話をし続けた
ときどきバックミラーで後部座席をちらりと見ながら
その話には僕の知らない時間の出来事が
幾つか含まれていた
僕は少し驚き
またそれが特に驚くようなことでもないと
そういうものなのかと
思えたりした
「聞けばKのお母さんとMのお母上とは友人だったそうじゃないか」
そうだった
Mの家にMの鞄をとりに行ったとき見た写真には
Mや僕よりも若い女性が二人仲良く並んで立っていた
それに僕は驚いていて
しかも理由が全くわからなかったから
その一方が母だとはMに言わなかった
「オヤジとJ先生が知り合いでしたからね」と僕
「いや そうじゃないよ
それ以前からだと聞いた
結婚する前からだと」
それは意外な話だったが写真を見たときに
そういうこともあるのだろうかと思ったので
それほど僕は驚かなかった
「親子二代で
しかも父親同士 母親同士は友人だったというのは
これは縁というしかないことだ」
「どういう経緯なのか聞いたことはないんですよ
Mもよく知らなかったし」
「ということは二人の母親は
自分たちが友人だったことを子どもには言わなかったということか」
思い返してみても
僕たちの家族が一緒にいたという記憶はなかった
僕がJ先生とオヤジが友人だったことを知ったのは
大学に入ってから
J先生に聞いたことだったから
そして僕はMの母親に会ったことはない
「人はひょんなところでつながっているものなんだと
今更ながらに考えさせられたよ
しかもJさんはお母さんに会ったことがなく
Mさんの母上はオヤジさんに会ったことがない
それなのに
Jさんとオヤジさんは友人で
将来妻になる二人の女性は高校からの知り合いだった」
「高校から?」と僕はちょっと大きな声を出して聞いた
「そうらしい 君のお母さんの方が二つ上だったが
結婚したのはJ一家の方が先だった
J夫婦が出来上がったときには
君のお母さんはフランスにいて
オヤジさんとは出会っていなかったそうだ
そしてJ夫婦の結婚式には行っていない」
「どうしてそんなことまで聞いて来たんですか」と僕
「いやあ まあ年寄りの身の上話好きだよ」
「それにしても」と僕
「出会うも縁 出会わぬも縁さ」とあのひとは平然と言う
「しかも君たちの母上たちはこの近隣の出身者ではない
Jさんは近くの出身だそうだがオヤジさんは違う
出会うも出会わぬも縁だが
出会ったことに気づいたときにだけ
人は不思議がって驚いたりする
それこそ君の言う『確率』じゃないかね
希少な確率もゼロではないということさ」
あのひとは妙に雄弁になっていた
何を考えてのことなのだろう
確かに
僕がJ先生と出会ったときには既に
夫婦は別居していた
だからJ先生はMのことを何も僕に言わなかった
母はオヤジが死んで
ほとんどすぐに後を追うようにいなくなった
僕がJ先生の話をしたときに
母がそれについて何も言わなかったのも
同じ理由だったのだろうか
自分の友人と別居した男のことだ
でも同時に自分の夫の友人でもあるJ先生と
親しくするなと言うこともできなかった
そしてあの日
J先生と僕が駆けつけたときには
母の命はまさにこの世から消えたところだった
だから確かに母はJ先生には会っていないことになる
でもそうなら
なぜJ先生はあの日僕より先に母の容態の変化を知ったのだろう
僕にはそれを訊く余裕が全くなかったのだろうと思う
そんな細かなことを確かめたところで
何にもならなかったからだ
いやそうではない
全然違う
J先生は母のことを知っていた
何時の頃からかは分からない
オヤジが死んでから
僕がJ先生に親しくしてもらうようになってから
詳しくは聞いたことがなかったが
頭のなかでいろんな経緯がこんがらがり始めた
Mはどうなのだろう
家に行って写真を見たときMは「友だちだったんですって」と
言っただけだった
僕との関係も全く知らないふうに見えた
J先生がいない家で
MとMの母親は僕について話したりしなかったのだろうか
でも僕が写真の女性が僕の母だと言わなかったように
Mは知っていて言わなかっただけなのかもしれない
僕は足元から背中にかけてぞくっとし
微かに自分が震えているのに気がついた
もしMがそのことを知っていて
でも僕には何も言わずにいたのだとしたら
それは一体全体なぜか
バックミラー越しに僕を見ていたのか
あのひとがまた事も無げに言う
「Mさんも全く知らなかったようだ
あの母上そっくりなまっすぐな目を丸くして驚いていた」
「Mはなんて言いました?」
聞きたいことだった
「何も
ただ黙り込んでいた」
僕のいないところでまた何か決定的な出来事が
起きていたのだと僕は思う
「出来事は伝わらないことのほうが多いものさ
君たちの縁についても
知らないことが山とあるのだろう
君たちの世代の前に起きた事だからでもあるが
それに
奇しくも君たちは
この夏に一緒に私のところに居た
これを縁と言わないで何を縁と言うかだよ」
車を運転しながら話しているせいか
その言葉は何だか他人事を話しているように聞こえた
このことはMと僕のつながりに何も変化をもたらさないようなことだと
僕は考えたかったが
Mや僕が知らなかったのがどのような経緯の連鎖の中で
そうなったのかを考え始めると
細かな経緯の中にまだ見えていないことが
幾らもあるような気がして
僕の脳みそは急な負荷の上昇で動かなくなり始めた
Mはこのことをどう考えているのだろう
「そうそう Mさんの母上に郊外の
郊外と言ってもオクスフォードの郊外にだが
家を探してもらうように知人に電話しておいた」
またしても・・・
僕は言葉が見つからなかった
「え?」と僕はぼんやりした頭で聞き返す
「イギリスに永住する
いや数年だけかもしれないが
そういう希望だと話してくださったのだ
たまたま私の古い知り合いが・・・」
僕はそれを遮って言った
多分かなり大きな声で
ダフネが僕の隣の席でぴょんと跳び上ったから
「何でそんなにまでお節介なんですか!」
「お節介? まあそうだ
けれど成り行き それほどお節介でもありはしないさ
Mさんだって二ヶ月近く私の家の
住人だったのだから
『すみません すっかりお世話になってしまって』と
言われてまたもう一つ小さな世話焼きをしたくなっただけ
Kにお叱りを受けるようなことでもないさ」
成り行きだとあのひとは言う
でもこれは本当に成り行きなのだろうか
またしてもあのひとの「深謀遠慮」を僕は疑い始める
「外交は相手の世話を焼くようにしながら自分の意向を実現したりするものさ」
あのひとは以前僕にそう言ったことがある
言葉は違ったかもしれないが
そういう意味のことを
ある意味何度となく聞いた台詞のようだった
またバックミラーの中の目が僕をちらりと見た
「そうなったらKはどうするね?」
「僕がどうするって どういう?」
「つまりMさんは迷っているふうだったのだ
ついていくのかどうか
二人きりの家族を別々にするのかをだ」
そういうことだった
帰国したばかりの燕返しだったが
Mの母親が日本を去るのなら
M自身がどうするか
それは当然問われるはずのことなのだ
それをMは今日聞いたのだろうか
いや そうでないことだけは
この錯綜した話の中で唯一明白なことだった
Mはここしばらくずっとそれを考えていたに違いない
不意に雨が車の窓ガラスを打ち始めた
にわか雨
空は明るい
雨
なんでこんな日に雨なんか降ったりするのだろう
歩道を歩いている人たちが先を急ぎ始めた
誰も傘を持っていないようだ
そりゃあそうだ
雨の降りそうもない日に傘を持って歩くのは
気取り屋のイギリス人くらいのものだ
大雨の日にも傘をささずに歩くのも
気取り屋のすることかもしれないが
いくら天候気候の科学が進歩したって
何時何分何秒の今
広い地球の片隅のこの街の一角に雨が降るかどうかなんて
結局は予測できないことなのだ
雨が実際に一粒ぽつりと落ちて来るまでは