その時だった
弦の音が途絶えた丘の上に急に世界の音が戻って来た
風が出始めたのか枝が騒ぐ音が僕らを四方から包み
消えてしまったかのように思えた海が
潮騒が
もうこらえきれなくなったみたいに
一気に解放されたどよめき
枝打ち当たる音と葉叢の騒ぎと波音がまるで
たった一つの物が揺れて奏でる楽曲のように
何の変哲もない小さな丘の
雑木林の木々の向こうから
目には見えないのに
海が広がってきた
胸ぐらに打ち当たる重い波頭
僕らは海に押し流されそうだ
水面に細かく反射する陽光が
葉叢を突き破って近づいて来る
なんという存在感
津波のように競り上がってくる海の碧
慌ただしい鳥の羽音
何十羽の群れ?
高い
空気を鋭利に切り裂く鳥の声
何かに向かってまっすぐに
ダフネが両腕で自分を強く抱きしめて
深く息を吸い込んだ
それから
見えない海に向かって
「さあ このまま私を持って行って頂戴」とでも言うように
両手をぱっと開いて立ち上がり
音に身を委ねる
そしてダフネはそのまま動かなくなる
冬日に身体を温めてもらいたがる小動物が背伸びするようだ
深く吸い込まれ
また吐き出される息
まるでこの素晴らしい音を呼吸する
僕も思わず深呼吸する
何の変哲もない平凡な世界の
なんという清々しさ
きっと死はこんなふうにやってくるのだろう
ありとあらゆる小さな
失われた者と動かぬ石とが
何の前触れもなくふっと息を吹き返すときに
入れ替わり立ち返りする
移ろいゆくすべてのものの
何万分の一の確率でしか起き得ない在り方の
たった一つの組み合わせが
ぽんと投げ出されるようにして
そのときには生は死と区別がつかない
進んで来た方向が違うだけで
鳥と鳥が空の中ですれ違うように
日々の中に膨れ上がる神
創世の神話を色褪せさせるに十分な
この世界
海と崖と寄せくる波と
木々と風と鳥の歌
それだけで十分だ
僕らが日々を生きていくためには
そして朗らかに死ぬためにも
幾億の可能性の中の
ただ一つだけの実現
それこそが僕たちであり
それから空気はまた
何も無かったように静まり
そう
何も無かったのだ
けれど
ダフネも僕も
ひとときのあいだ
そこに居た
丘の上に押し寄せた世界の中に
わけもなく在るものとして
「さあ帰ろう 僕たちの家に」
そう言って僕はダフネの肩を抱いて歩き出した