「こらこら 急に跳びついたら危ないじゃないか」と
言ってもおそらく通じず
また通じたとしても意味のなさそうなことを言いながら
僕の腰に回された細いダフネの腕を引っ張って
前に立たせた
ダフネは少し不安げだった
「M?」と聞くのだけれど僕はすぐに返事ができない
家に帰ったと言ったところで
それが期限が有ってまた僕らのところに戻るのか
戻るとしたらどのくらい後になるのか
あるいは
だから僕は黙っていた
返事がないことがダフネの不安を強めたのか
ダフネは何度も「M」と繰り返し
僕にしがみついてきた
考えてもみれば
Mがここにやってきて以来
わずかな例外を除けばダフネはMと常に一緒だった
一緒に食べ一緒に風呂に入り一緒に寝た
走りもし泳ぎもした
いやそれだけではない
時にはMはダフネの母に
あるいは姉に
そして時には競争相手になった
それがある朝に目を覚ますと何処にもいないのだ
Mが「お別れ」と言ったときダフネはその言葉を理解したのだろうか
不審げに僕のところにやってきて「Mが・・」と言いかけた
もちろん口に出してというよりはその振る舞いで
だがそれはどういう意味だったのかはわからない
ただこうやって不安げにしているということは
単にMが買い物に出かけたのとは違うと感じたからだろう
Mの持ち物の一部も二階の部屋から消えていた
僕はどこか頭の隅の遠いところで
あるいは肺胞の一つか二つがチクリと痛んだ気がした
言葉が通じなくたって同じ感情を持っていることはわかるのだ
僕は両腕をダフネの背中に回して抱き
「だいじょうぶだよ」と言う代わりに
頬をダフネの頬に寄せて
それから額に口づけた
ダフネを安心させようとしたわけではない
実に僕もダフネに劣らず不安だった
薄いワンピースの下にダフネの温もりと
それから奇妙な湿気を感じる
まるで身体で泣いているような湿り気が
ダフネの全身からあふれてきていた
懐かしい花の匂い
もしかしたら
あと1時間もすればMはあのひとと一緒に戻ってきて
「あはは また来ちゃったわ」と言うだろう
あるいは
そういう言葉を聞くことはないのかもしれない
不在の時間が短かろうと長かろうと
今まで居たひとがいないということに変わりはない
そんな気がする
季節が変わるように
夏が秋に小さな椅子を譲り渡して去るように
ダフネの頭越しに海が見えた
今日は晴れているのに
海はプルシアンブルーに翳っていた
海が翳る?
陽は昇りきり海の上に影を落とすものは何もない
でもそういう物理的な位置関係とは全く関係なく
『翳っている』という感じがした
『どうしようか?』
何も特段の危機的状況にあるわけでもないのに
僕は頭の中で何度も繰り返し
湿ったダフネの身体を抱いたまま
こうしていてはいけないと感じ始める
「散歩に行こう」と僕は言った
「浜じゃなく どこか林のあるところに」
そう言ったのは
僕らだけがこの家の中にいるのはおかしいと
そう思ったからだったろうか