兎の白昼夢などにうろたえていた自分がばかばかしいと思ったときだった
家の中からダフネの叫び声が聞こえた
悲鳴と歓声が入り混じったような声
二階からではなくリビングからだ
ダフネも目が覚めて降りてきたのだろう
そこで何があったというんだ
「・・・オロー」と語尾だけが尾を引いて聞こえた
半開きのガラス戸から首を突っ込んだボクが見たものは
尻もちをついて目をいつもよりもっと丸くしたダフネ
ちょっと前によく着ていた袋みたいなワンピースから
棒みたいに伸びた白い足の先辺りに
ガラス戸越しに伸びた僕の影
「やあ久しぶりだね」と聞いたことのある声が
僕の足元のすぐ傍から聞こえた
久しぶりだって?
両方の耳をしっかりV字に立てて
さっき消えたばかりのはずのハクが
丸い尾をこっちに向けた恰好で座っていた
ダフネはレポーロ(兎)と叫んでいたのだ
しかし何でダフネは尻もちをつくほど驚いたのだろう
顔に恐怖の色はなかった
階段を降りてきて見慣れないものに出くわしたということなのだろうか
「久しぶり?」と僕は言った
「ほんの二三分前だろう
散歩するとか言って消えたのは」
「おや そうか
一ヶ月近く採集に勤しんできたところなんだが」とハク
「飲み込みの悪い奴だな まったく
時間は」
「何とかガムみたいだって?」
「そうそう 草の根っこガム
噛み方次第で伸びもすれば縮みもする
君もそのうち分かるさ」
「分かるわけないだろ 童話じゃあるまいし」
「どうも君は相当に疑り深いようだな
人の言うことをなかなか信じようとしない」
「ひと? 君は兎じゃないか 人じゃない」
「ふん それはそうだが 兎が人間の言葉でしゃべるときには
『兎の言うことをなかなか信じようとしない』というのも変だろう
君の世界に合わせて話しているだけで
何もボクが人間だなどと言うつもりはないよ
他兎とか言ったって通じはしない
他人と言えば通じるだろう こういう場合には
だいたい話を聞いている君が兎ではないからね」
馬鹿げた言いようだったが
何故か僕には合理的な見解に思えてしまう
「確かに兎は話したりしない」
「そうだ だから君はボクを兎の恰好をした人間としてとらえるしかない
だから『人の言うことを信じようとしない』で問題なし」
ハクは自信たっぷりに言い切った
「君も草の根っこガムを噛むといい」
「僕は兎じゃないから草の根をガムみたいに噛んだりしない」
「誰が草の根を噛めと言ったんだ?」
「君だろう 時間を伸ばしたり縮めたりするのは
草の根っこガムだとか何とか言ったのは」
「『草の根っこガム』は『草の根』じゃないのさ
そもそも兎にとっての草と君ら人間にとっての草は同じじゃあない
ボクたちにとってはなかなか美味い食い物だが
君らにとってはただの役にも立たない邪魔ですらある植物に過ぎないだろう?
音が同じだからと言って意味まで同じだと言うのかね」
「誰か哲学者がそんなことを言っていた気がするが
それを言うなら
君の言葉は僕らの言葉ではない
全然違うものだから通じようがないだろう
それなのに僕たちは言い争っている
どこかで意味が通じているからだ」
「ふむ もっともな言い分だよ それは
だが世の中理屈どおりにすべて進む訳じゃない
こういう通じ方もあるものさ
だいたい君は僕の声を空気の中を伝わる音として
聞いている訳でもないのさ
細かいことを言い合ってもしょうがない」
「だけど君は確かに『草の根っ子』と言った
そこだけが僕らの言葉と違うと?」
「そういうことだ
兎語と人間語でも共通の部分もある
共通でない部分もある
そりゃ君たちがお互いに人間語で話していたって
しょっちゅう起こっていることだろ
ガムという言葉だってゴムかもしれないだろうが」
「じゃあ聞こう 『草の根っこガム』ってのは
僕らの言葉の意味としては何なんだ?」
「一対一対応する語を見つけるのは難しいさ
どんな言葉と言葉の間でも
まあ強いて言うなら『生活』みたいなものさ
あるいは『生活のすべ』か
噛み締めなければいけないもののことだと言えばいいかな
兎コードと人間コードはどこかでつながっているんだ」
「兎コード?」
「そう 君のお得意のコンピュータのプログラミング言語みたいなものさ
人間語とは程遠いし意味も全く違う場合もある
けれど完全に接点が無いなら人間がそれを操れるわけがない」
僕は反論できなくなり始めていた
この兎は何て奇妙な説得力を持っているのだろうかと
感嘆の声をあげたくなるほどだった
「では聞くが何故『草の根っこガム』にだけそんなに
こだわるんだ?」とハクがぐるりと振り返って言った
「それは特に理由は」
しどろもどろになりながら僕が言うのをハクが遮って
「いや 君は時間を自由に伸び縮みさせられたらいいと
思っているんだ
例えば君が十数年も若返れば
この月桂樹の子と同い年になり
それなり幸せになれるかもしれないとか」
「月桂樹の子?ダフネのこと?」
「そうそう ダフネだった
この娘は実に豊かな言葉の持ち主だ
ボクなんかが及びもしない」
「まさか ダフネはほとんどしゃべれない」
「それは君らの言葉ではそうかもしれないが
ボクが一週間かけて採集したような言葉なら
これほど豊かな話し手はそういない」
それを聞いて僕は黙った
ハクが言っていることが分かったように思ったからだ
ハクはダフネが踊ることを言っているのだと
風に吹かれて揺れる野の草の動き
煌めいて舞い上がってくる小川の水の揺らぎ
伸びてゆく木の枝の力
もろもろのそういう生きたものたちの
時間とともに刻々と変わっていく姿
ダフネならそれを身体の動きで言い表したことだろう
それは確かに豊かな言葉に違いない
それなのに
ここしばらく僕はダフネに言葉を取り戻させようとしていたのかもしれない
でもそうやって
言葉が通じるようになったとき
ダフネは自分の言った言葉が僕たちに通じると知ったとき
嬉しいと本当に思うのだろうか
ほんとうのダフネのほんとうの
つまりダフネらしいダフネ自身の言葉ではない言葉で
通じ合うことをダフネは幸せだと感じるか
それはずっと僕を悩ませていた問題ではなかったか
「そのとおりさ
君は君らのコードじゃなくダフネ・コードを探すべきじゃないのかな」
そうハクは言うと
まだダフネの方に向き直ってピョンとダフネの足元まで跳ねた
それからダフネの足に添って一二歩進み
ダフネの膝頭あたりに鼻を押し当てたり引っ込めたりした
ダフネはくすぐったがって足を引っ込めたが
床についていた両手をあげて
ハクの耳をひょいと引っ張りながら
何か小声で話しかける
「そうだな まあまたいつか」とハクが答える
「何だって?」と気になって僕が聞くと
ハクは振り向いて言った
「この子も草の根っこガムが欲しいとさ」
次の瞬間に
僕は後ろから誰かに抱きつかれ
それからダフネの「K」という声を聞いた
僕は家に背を向けて庭に立っていて海を見ているところだった
起き出してきたダフネが庭の僕を見つけて
走って僕のところまで来て僕に後ろから抱きついたのだ
生温かいダフネの身体の感触が
背中いっぱいに広がった
ハクはもうどこにもいなかった