庭の方にまで回って僕はまたユニィオを呼んでみた
けれど何処にもユニィオはいなかった
Mと一緒に車にでも乗っていったのだろうか
しかしユニィオは車がそれほど好きではなかった
では何処に
僕は急に聴覚を失ったみたいに
音が聞こえなくなったような気がした
いつもなら遠くであっても聞こえる波も
葉叢を抜ける風も
音を伝える空気が消えて無くなったように
真空が庭を支配していた
いたたまれない感覚だった
景色は鮮やかに見えるのに
何か当たり前にあるべきものが無いといった感覚
たぶんそれは喪失感だったに違いない
いつも身近にいる人たちが居なくなったという
束の間の不在に過ぎないはずなのに
長い別れがやってきたかのように
小さな別れが今までの幾つもの別れを
すべて呼び戻したような
すぐにまた会えるはずの人たちと
取り返し得ない別れを迎えたかのように
なぜなのか僕にはわからない
でもこの空白な感じはいったい何だろう
昨夜お互いに傍にいることを
確かめたばかりだと言うのに
僕は庭の真ん中で立っていた
遠くに海を見ているだけで
それ以外は何もなかった
「おそれることはない」
突然僕の後ろから誰かが言った
僕はぎょっとなって振り向いたが
「どのみち別れはいつも必然なのだ
それを一々おそれていて何になる」
声はまだ言い続けているが
声の主はどこにも見当たらなかった
「何処だ」と僕は聞いたと思う
でも僕自身の声さえこの耳に聞こえているのかはっきりしなかった
目を閉じて夢を見るように
聞こえない声で僕は尋ね続けた
「何処にいる?」
僕は「誰だ」とは聞かなかった
自分の声も聞こえないのに
話しているのが誰かなんて二の次の問題だった
それよりも
この声は?
僕の独り言なのかどうか知りたいと思っていた
だから何処から聞こえてくるのか
僕の声は聞こえないのに
この声は何処から聞こえてくるのかと
「ユニィオはいずれ帰ってくる
すぐにではないかもしれないが」
「何処だ?」
何度目にか僕が聞いたとき
声が言った
「ここだ」
でも相変わらず僕には誰も見えなかったのだ
たいした出来事が起きたわけでもないのに
僕は頭がおかしくなったのだろうか
いや
狂気なんてさしたる理由もなくやってくるものにちがいない
「バカなことを考えるなよ
君は正気を失ったりはしていない
もう少し下を見ろ
ボクは君ほど背が高くないのだ」
そう言われて慌てて僕は足元を見たが
そこにも誰もいなかった
「ここだ」
声が繰り返した
僕は道に迷った子どもみたいに
うろうろと目を彷徨わせ
庭木の根元までたどって
それから息を呑んだ
根元に
両耳をまるで左右対称な図形のようにピンと伸ばし
黒っぽい褐色の目をした
兎が僕の方をじっと見ていたからだ
真っ白な毛の肩から両目にかけて
ピエロの化粧みたいに
明るい褐色の毛が生えていた
「やっと目に入ったな
そうボクはここにいる」
兎が口元をもぐもぐと動かしている
その動きと声はぴったりタイミングが合っていた
「ハクと呼んでもらおうか」と
小さく揺れる口元が言った
「何を驚いているんだ
意気地のない奴だな全く」
「意気地がないって?」
「そうとも これだから戦争を知らない奴等は困る」
「何をいっているのかわからない」と僕は言い返す
「ボクたちのように生き死にがかかっている者は
こんなことぐらいで驚いたりはしないのさ」
「僕だって目の前で人が死ぬのを見たことはある」
僕は古い記憶の中から
もうほとんど実感のなくなりかけていた出来事を引っ張り出して言い返した
「おや そうかい
ああ確かにそういうことも有ったな」と兎が
長い後ろ足で鼻の横をこすりながら言う
「有ったな?兎なんかに何が分かると言うんだ」
「兎には分かることも分からないことも有るさ
それにこれは分かる分からないの問題ではない
知っているというだけのことさ
まあそう息巻くなよ
別に哀れな君をいたぶろうってわけじゃないから」
「哀れだって?」
「そりゃあそうだろう?
君はいったい誰に傍にいて欲しいのか
自分からは何もしないでいながら
あの幼馴染みが出て行ったというだけで
世界の終わりみたいに動揺している
そういうのを哀れと言わないで誰を哀れと言えばいいんだ」
「幼馴染?Mのことを言ってるらしいが
Mは幼馴染なんかじゃない
大学で初めて会ったのだから
それも最近までよく知らなかった」
「そうかい そうかい
まあどうでもいい どのくらい前の出来事かなんて
重要な問題ではないからね
時間なんて『草の根っこガム』みたいなものさ
噛み方次第で伸びたり縮んだりする
いずれにせよ
君はガムの噛み方を知らないな」
「何をわけの分からないことを言ってるんだ
さっきユニィオはいずれ帰ってくると言ったが
じゃあMは?あのひとは?どうなんだ
ユニィオが迷子になってどこかに行ったまま帰らないってことは
考えられるが
二人はユニィオとは違う
帰り道をちゃんと知ってるんだから」
兎は両耳をぴんと立てたまま黙って聞いていたが
急に身体がかゆくなったかのように
唐突に首をひねって背中の毛を何度か
噛んで引っ張ったり鼻で押しやったりした
それから少し馬鹿にしたような声で言った
「そいつは違うな
犬は道を忘れたりしないものだ
それに比べて人間は全く当てにならない
だがあの二人はそれぞれ違うやり方にせよ
ガムの噛み方はよく知っていると見た
分かっていないのは君の方だな
噛まなければガムはさっさと枯れて
土になってしまうさ
まあそのうち いやすぐにも分かるだろう」
僕はだんだん腹が立ってきた
「全然わからない
だいたい兎が言葉を話すこと自体が
馬鹿げたことじゃないか
意味のあることを言えるわけがない」
「おやおや そいつはまたご挨拶だな
風音や潮騒の中から言葉を選び出して
それを人間に教えたのは我々なんだから
ところで
草が風に揺れ木の葉が騒ぐ秋の朝だ
森を越えたところの草原にでも
散歩に出かけることにするよ
早めに採集しておかないと
手に入る言葉も手に入らなくなる
じゃあ またいすれ」
そう言い終わるか終わらないうちに
兎はぴょんと跳ね上がり
向きを変えると植え込みの中に頭を突っ込んだ
「おい そっちは崖だぞ フェンスもある」と僕
「やれやれ 目の見えない奴は本当に困りものだ
目をちゃんと開けて世界を見ろ」
そう言い残すと兎は僕をからかうように
丸い尾を左右に振ってからフェンスを素通りして見えなくなった
「待てよ 誰なんだ 君は」と僕が聞くと
もう姿の見えなくなった兎の声が言った
「物覚えの悪い奴だな
今度また会うときまでに復唱してちゃんと覚えていて欲しい
さっきも言ったとおり
ボクはハク
兎のハク・チューム」
それだけは合っている気がした
確かにこれは白昼夢にちがいない