夜の浜辺の砂の音 | 不完全な切り紙細工

不完全な切り紙細工

 誰も聴く人がいないのに歌いつづける歌がある
誰も見る人がいないのに踊りつづける踊り手がいる
誰も読む人がいないのに書きつづけられる言葉があって
不完全な切り紙細工を幾つも幾つもつなげていけば
そこに何かの絵が生まれるものと願う鋏がここにある


 ダフネが手渡してくれたウクレレは
 ダフネが胸に抱きしめていたせいもあってか
 音は四弦ともひどく外れていた
 特に硬い凧糸みたいな四弦目は
 音を合わせるのが難しそうだった
 低い音を作るには弦が重くなくてはいけないのだけれど
 こんなに太くしてしまうと
 開放のときと高音の音程がずれやすくなる
 ちょうどフルートの管の片側を閉じているコルクを抜いたみたいに
 両方開いていても音はしっかり鳴らせるけれど
 ふらふらと上ずってしまう
 フレットの高さと弦の太さとの物理的な大きさの関係でなのだ

 「チューナー持ってきてないや」と僕
 「立派に調律されてるピアノを忘れてないかな」とM
 「そうだった
  でも僕の耳はそんなに正確じゃないからな
  たった4本だといったって同時に鳴るんだから
  鳴らしてみたらあれれってことになりそうだ」
 「任せて」とM

 不思議な楽器だった
 太い四弦もほとんど苦労しないでぴたりと合った
 12フレット目でも
 もしかするとフレットやブリッジに
 何か特別な配慮がされているのかもしれないと思ったほどだ
 ぽろぽろと鳴らしてみると
 単弦なのにリュートみたいな深みのある
 何と言ったらいいか
 静けさのある音だった
 胴の共鳴し方まで計算されている感じがする
 鳴っているのは弦だけじゃない

 調弦している間ずっとダフネは
 身を乗り出して音を聴いていた
 ダフネが聴いていたのは音の高さではなかったろう
 もっと違う
 聞きなれた懐かしい音
 音ってそんなものだと僕はあらためて思う
 音色には時間がつまっているのだ

 「確かに素晴らしい音がする」とあのひとが言う
 「だめだ」と僕
 「何が どうしてよ」とM
 「いや 違うんだ
  とても素晴らしい音だから
  いい加減には弾けないって感じたんだよ
  少し練習したい」と僕
 「贅沢」とじれったそうにMは言ったが
 「そうね ダフネのお父さんの音じゃなきゃいけないのかも」と
 すぐに付け足した
 僕はモノフォニックな笛吹きで
 幾本も弦のある楽器は
 全然弾けるというほどじゃなかったから
 尚更そう思わずにはいられなかった
 少し諦めきれない気持ちのまま
 テーブルに楽器を置くと
 ダフネが「ミュジコ?」と語尾を上げた
 「その気があるんなら
  私がいなくなってから練習すればいいわ」とM
 ダフネがまた「ミュジコ?」と繰り返す
 なんだか二人とも不満げに見えた

 「ねぇ 浜に行きたくなった」とダフネの疑問符をよそにMが言い出す
 もう夜は10時近くだったけれど反対する理由はなかった
 きっと夏が終わりに近づいた夜の海の風は快いに違いない
 「行ってき給え 私は音楽でも聴くとする」と
 あのひとが穏やかな顔で言う
 Mがじっとあのひとを見て「一緒に行きませんか」と誘いをかける
 それでもあのひとは
 「いや先日十分歩いた
  年寄りには乾いた砂浜はいささか重いよ」と言うだけだった
 
 きっと僕たちだけで行かせてやろうと思っているのだと僕は思う
 あのひとがいつだったか言った言葉を思い出す
 「外交辞令というのは服を着たまま愛し合う技術みたいなものさ」
 それは言葉はいつも嘘なのだという意味でもあり
 それでいて嘘をつき合いながらも
 人は愛し合えるものだというふうにも聞こえた
 このひとはいつもそういう配慮の服を脱ぐことはない人なのだ
 旅行から帰ってからその傾向は強まっている気がした

 
 浜は暗かった
 赤い月はさっきまでの透明感を失くし
 ぼんやりと煙り始めていた
 波は穏やかで
 そのせいか僕たちが砂の上を歩くと
 乾いたきしきしという音がはっきりと聞こえた
 ダフネもMもその音に気づいていたのだろう
 ダフネは音を楽しむように
 スキップしたりグイと足を踏ん張ったりした
 思ったとおり風は僕たちを快く撫でて通る
 でも風の音はしなかった
 砂の音と遠い波音

 この夏に僕たちは泳いだ
 キャプテンの家の人の温もりにうとうととした
 際立った蜃気楼も
 大きな横波や本物のイルカも
 それがこの夜には嘘だったかのように遠い

 でもまだ秋じゃない
 砂に抗って歩けば汗が滲んでくる
 夜になってもまだ水は暖かいだろう

 「なんだか泳ぎたくなった」とM
 「このあいだのおかげで泳ぐことを思い出した」
 そう言うとMはすたすたと波打ち際に行き
 そのまま海に向かって歩き出した
 「そんな恰好で泳ぐのかよ」と言う僕の声など聞いていないみたいに
 どんどん海の中へ行ってしまう
 薄い夏服のワンピースのスカートがふわりと
 波に浮かぶのが見えた
 Mの中で何かが戦っている気がした

 「それじゃ泳げないだろう」と後ろから僕
 もう何歩か進んで腰の辺りまで海水に隠れたとき
 Mは急に振り返って戻ってくる
 「誰もいないからいいよね」と言い終わるか終わらないうちに
 波打ち際まで戻ったMは
 あっと言う間に服を脱ぎ捨てて裸になってしまう
 自慢じゃないが
 けっこう長い付き合いで際どい恰好は何度もお目にかかったけれど
 何も着ていないMの裸の姿なんて見たことはなかった

 薄暗い明かり一つ無い夜の海だった
 Mの白い身体が暗闇に浮かんで見えるだけだった
 それもすぐに水に浸かって泳ぎ始めた
 目を凝らして見ないとどこにMがいるのかもわからない
 これが夏の終わりということなんだろうかと
 僕はぼんやり考える
 遠ざかって見えなくなるということが

 でもダフネは考えたりはしなかった
 Tシャツにショート・パンツ姿のまま
 Mを追いかけて海へ
 上下とも白だったからダフネは暗い海の中でもよく見える
 その前をMの腕がときどき水面を切る
 二人とも取り憑かれたみたいにどんどん進んでいく
 僕はまだ立ったままだったけれど
 二人の姿が遠ざかるのに耐えられなくなって
 下着一枚になって後を追った

 海水は思ったより冷たかった
 それでも震えるほどではない
 海にはまだ夏が居残っていた
 僕は夜の海で泳いだことは何度かあったけれど
 今夜は少し高ぶっていたのか
 全速力で二人に追いついた
 泳ぎつづけるMとダフネの顔と姿を
 僕はきっと長い間覚えているだろう
 その表情はどこか人間離れして
 海の生き物のように水をくぐり
 泳いでいることが生きていることだとでも言いそうに
 暗闇の中で濡れて光っていた
 僕もそうだったのだろうか

 どのくらい泳いだのか
 たぶん30分かそこらだったと思う
 誰からともなく僕たちは反転し
 浜の方に泳ぎ戻る
 どういう光の加減でか分からなかったが
 海の中からみる波打ち際は海の終わりがそこにあると思えるほどに
 くっきりと見えた

 水から立ち上がるとMは「私だけが裸なのかあ」と
 ダフネと僕の方をちらりと見ながら言った
 いつものMの声より少し高い声だったが
 恥ずかしがっている様子はなかった
 暗い中で余所見をしたせいかMは砂に足をとられてバランスを崩し
 いつものMなら「おっとー」とか言いながら体勢を立て直すはずなのに
 重力に逆らう動きを捨てたみたいに
 砂浜に前のめりにばったり転がった
 砂の柔らかい音がした
 身体を起こして
 「だいじょうぶ?」と聞いた僕の方に振り返ったMは
 もう砂の服を着ていた

 それから僕たちは砂浜に座ったまま
 また何十分か定かには見えない海を見て過ごした
 ときどき立ち上がって行ったり来たりするダフネが鳴らす
 砂の音の他はお互いの息の音だけを聴いて

 人は誰しも女という海から生まれてくるのだ
 いや人間だけではない
 数知れない種類の動物たちも
 それゆえに
 僕たちは海を愛し
 ときどきこうやって海に戻ってこなければ生きていけない
 そういうことなのだ

 最初に帰ろうと立ち上がったのは砂の服を着たMだった
 ほとんどびしょ濡れになったワンピースを
 今度は下着に変わる砂の服の上からすっぽりとかぶり
 男みたいな言い方で
 「帰ろう」と言った

 『何処へ』と僕は聞きそうになったが聞かなかった
 聞く必要のないことだと思ったから