それは夏の終わりの近づいた夕暮れ
なぜかマテウスのロゼとブルーチーズがテーブルの上にあった
懐かしい
ロゼの炭酸に惹かれて飲みすぎるワインだった
まだ十五六だったとき
まるでアル中みたいに飲みすぎてクダを巻いていたオヤジのそばで
僕が一本飲んでしまい
親子してヘベレケになったホテルの部屋
明るくはなかったが父は側に居た
ブルーチーズはそのときの僕には奇妙に甘苦い味
なぜかその組み合わせを買ってきたM
まるでピザみたいに円いブルーチーズ
僕はこの軽くて深酔いするワインを飲みながら
あのひとに聞いてみた
「あのウクレレは誰のものだったのか」と
そして誰が持つべきものかとも
答えはあのひとらしい
「ダフネが愛してもいい
作ったのはダフネのお父さんだから
けれど権利は君にある
持ち主の遺族が君に贈ったものだから」
でもウクレレは一本しかないから
愛と権利が不一致にならないためには
僕とダフネが共有するしかないと
僕はコンサート・タイプだと思ったが
実はもっと長くてテナー
Low-Gの弦が太いのはナイルガットの特注品なのか
「ダフネのお父さんが作った」ってどういうことか
ダフネの父親は楽器製作者だったのかと
聞けばあのひとは「違う」と
でもそれだけの凝り性でそれなりの技術があったから
この楽器は今ここにある
趣味もここまでくれば狂気に近いほどだ
「ブルーチーズは舌に残るわ
だからきっと花言葉みたいなものがあるのなら
それは思い出ね」とMが思い入れよろしく笑う
だから?
だから何なんだ
「君が弾かないなら
ダフネが大きくなったときに弾くだろう
君はそれを側で見守るかね」とあのひとが皮肉っぽく言う
Mがちょっと引きつったように笑う
「私は明日帰ります
母が帰ってきたので
その後は未定だけど
今夜はそのためのブルーチーズ」
たぶん僕の記憶が正しければ
Mと一年以上も前一緒に過ごした夜
テーブルにあったゴルゴンゾーラ
だから?
「だから今夜は一応お別れ会よ」とM
それは時間とともにやってくるはずの
でもそれが来ることを忘れそうな日々が過ぎ
「ダフネの数少ない家族が君に託したのだ
ダフネの次に愛していた楽器だったと
だからダフネの側に居てくれる人に
持っていてもらいたいと
君は受け取らないかね K」と
あのひとが僕の目を覗き込む
悩んでいるのはそんなことじゃない
わかってるでしょうに
何を面白がっているんです
僕は時間と戦っているんです
あなたの商売道具みたいな時間と
ダフネはここ何日もウクレレを抱いて歩いている
踊ることを忘れたように
それも記憶なのだろうか
見たことのある
あるいは父親がよく弾いていたのを見聞きした楽器
それほどに恋しいのなら
なぜここに僕と僕たちと一緒にいるのだろう
オルフェは愛するものを追いかけて
冥府まで行った
君は行かないのか
それとも
あのとき「みんないなくなった」と日本語で言ったのは
ただ置いていかれたということだったのか
僕はあの出来事を人から聞いたに過ぎない
でもそれは事実
ただダフネがそれを知っているのかどうか
今更ながらに不確かだった
僕はその楽器を作った人ではない
今作ることもできはしない
ならば
なぜ君はここにいるのだろう
食べ終えたダフネが椅子を立って
ソファにちょこんと腰を下ろす
まるで母親みたいにMがダフネの隣に座る
ダフネが楽器を抱いたままMに寄りかかる
Mは今夜は一口もアルコールを飲まない
だから?
ロゼで僕が酔うはずはない
何本だって水のように飲むだろう
なのに僕の頭はなんだかグラグラし始める
たった半分で
酔いしれるほどに甘すぎる
なぜ夏は終わるのだろう
僕たちがまだ夏だというのに
僕はふらふらと立ち上がり
ダフネとMの前を通って
庭に出る
気まぐれな風が僕に話しかけ
なぜ今夜の月は赤いのだろう
ロゼを月の面にまき散らしたように
濡れて光っているようにさえ見える
桜色のロゼらしくもなく
赤ワインのように赤い
こんな月
赤い月面の向こうには時間の海
それを見ている僕の側には時間
取り返しのつかない
一方向の時間
ここを過ぎれば二度と帰らない
後ろでMが何かダフネに言うと
ダフネが叫び声を上げる
明日から私はいないとでも言ったのか
ダフネが立ち上がりバタバタと走って僕の側に来る
僕を見上げるわけではない
ただ僕の腕をとって引っ張る
Mの方へ
Mは静かに座ってこっちを見る
それは意味のない
意味があるなら束の間の意味でしかない
そんなアドリブの
微かな即興曲
お互いの目を楽器と見なして弾くような
僕はダフネの肩に手を置いて
「ミュジコ?」と聞く
その楽器を僕に?
きっとそのチューニングは
ギターなら5フレット分高いのだ
もしかしたら何か僕に弾ける曲があるかもしれない
けれど
ダフネにはそれがどういうことかわからない
促されたみたいに空を見上げる
僕はダフネの瞳を覗き込む
赤い月がダフネの灰色の瞳の中に
まるで網膜の血管のように赤い
その血は何のために流れるのか
君のこれからの人生は何色になるのだろう
僕は不意にFancis CabrelのPetite Marieを思い出す
小さなマリー
僕は君の話をするよ
君は小さな声でちょっとした癖で
僕の人生にたくさんのバラをまき散らしたから
この赤は薔薇の色
それとも届かぬ月の色
僕に君のバラードが弾けるだろうか
不思議な月影だった
ロゼのように透明で赤い
きっと僕の人生でたった一度しか
こんなふうに光ることはない
誰が去っていくのだろう
君か
ダフネ
それともM
それとも僕か
空の月の左側の雲が流れて
暗いはずの空が青白く光り出す
白い夜の空と赤い月のコントラストが
ダフネの瞳の中でぐらりと揺れて
世界が裏返ったような気がした
Mがやってきて
僕の背中に顔を埋めたのがわかる
「Kちゃんのにおいがする」と
それでもMの右手はダフネの頭を抱きしめる
ダフネが僕の後ろのMを見て
それから楽器を僕に差し出して言う
「ミュジコン M」
今このまま赤い月の向こうに行けるなら
僕は迷うことなく
君を愛するだろう
そして弾けない楽器を弾くだろう
ロゼのように澄んで
血のように赤いバラードを
行ってはいけない
誰ひとり
言ってはいけない
その言葉