その日
僕たちはけっきょく夕方近くまで海原の上を回遊した
湾の両側の大小の岬を結ぶ線に近づいたとき
クルーザーは向きを変え
崖の上の家を遠くに望みながら
観測センターとは反対の岬に向かって行った
そちら側の岬には行ったことがない
陽は少しずつ傾いたが
雲一つない快晴は昼の時間を長くした
磯が黒々と広がり
満ち潮の勢いで波しぶきが大きく舞っていた
イルカが去ると
ダフネは急におとなしくなって
ユニィオに逃げ回られてはMに絡みつき始め
Mの腕の濡れて緩んだ包帯を
ゆっくりとほどいて
自分の爪痕を眺めてもっとおとなしくなり
またきちんと包帯を巻き直した
Mはじっとされるままにして
陽を浴びていた
麦藁帽子はMからダフネへ
そしてまたMへと戻り
危なくない距離を保ちながら磯に最も近づいたときには
船は海鳥の群れに今日始めて遭遇した
Mが軽いランチにと持ってきたパンの残りを砕いて投げ上げると
海鳥たちは恐れる素振りもなく
パンくず目がけて
つまり船の上の僕たちの頭上に群がった
中の二羽三羽がダフネの手から
パンくずを巧みにくわえ取るのを
Mもダフネも幸せそうに眺めていた
5時すぎに船が港に戻ったとき
少しふっくらしたやさしそうな女性が出迎えた
キャプテンはその人の方に手を振りながら
「どうやら今日は皆さんと夕食をご一緒出来そうだ」と言う
船が近づくと
その女性はあのフローリストの店で見かけた人だった
店員のようには客には近づいてこなかったが
確かに店にいて
花を切りそろえたり
いろいろな花器に盛ったりする仕事を
熱心にこなしていた
レジを済ませている時も忙しそうにしていたが
僕たちの方を向いて微笑んだのを
僕は覚えていた
Mが「奥さんですか?」と聞く
「はいはい 古女房で」とキャプテン
係留が終わるまで見守っていた
改めて僕たちが挨拶すると静かに笑う
笑顔がやさしい人だなと僕は思う
キャプテンは何も言わずに手で合図しただけだったが
それだけでこの奥さんは頷いて歩き出した
「すみませんね こいつ無口で
というか耳が不自由なので」とキャプテンが言う
「だからかどうも船は苦手のようでね」
人が降りてしまった船でとうとうユニィオはダフネに抱き上げられ
無事陸に戻った途端にまたダフネの手を離れて走り出す
ユニィオに逃げ出され
つまらなそうに歩きだしたダフネの肩に手を回したのは
その耳が不自由だという奥さんだった
不思議なことにダフネは逃げ出すこともせずに
肩を抱かれたまま歩き出す
それを見ていたMが
「やっぱりダフネはお母さんが恋しいのかしらね」と
ぽつりと言う
港からそう遠くないところにキャプテンの家はあった
と言っても15分は歩いただろうか
泳ぎ回り陽射しに打たれた僕たちの
身体は火照ったままで
少し気だるくさえなっていた
まるで小さいときにはしゃぎまくった海から帰る時間のように
構えからすると崖の上の家なみに大きかったが
そのくせ小じんまりとした静かな家だった
家の中は
崖の上の家がどちらかというと
まるで避暑地の別荘のように中ががらんと何もないのに比べて
人間の住んでいる場所という感じがした
彫刻でもいっぱい並んでいるのかと思っていたが
そうでもなく
それでも家具やさまざまな棚
床置きのソファ
東南アジアのどこかの国のものらしい
木でできた電灯の笠
それから花屋らしく
そこら中に鉢植えが並んでいた
僕がもう長い間見ないで過ごしたものが
そこには有った
「わあ素敵なおうち」とM
そのとおりだと僕も思う
「さあさあ疲れたでしょう
まあ一杯行きましょうや」とキャプテン
「ちゃんと冷えてるから」とビールを持ってきた
「すみません すっかり楽しませてもらって
夕ご飯まで」とM
「なあに たいしたものはありませんよ
魚は獲れたてだと思うけどね」
注がれたビールは黒ビールだった
床置きのソファーに足を伸ばして座って
僕たちは乾杯する
ダフネにはアップル・ジュース
でもダフネは立ったまま一口飲むと
すぐにコップをテーブルに置いて
台所とそこにいる奥さんを探索に出かける
料理はレストランでは決して食べられないものだった
つまり家庭で主婦の手で作られた
僕たちはまるで欠食児童みたいに勢い込んで
ほとんど何も言わずに
でも皆嬉しくてしょうがなく
きっと日焼けした顔をさらに輝かせて食べていただろうと思う
「どんどん食べてくださいよ」とキャプテンが笑いながら言う
奥さんが食事に加わると
ダフネはさっさと隣に移動する
「こいつね 声が出ないわけじゃないんだが
しっかり音を作れないので
人様の前ではほとんど喋らないもんでね」
そうキャプテンが言うとMが
「お料理がいっぱい喋ってくれてます」と返す
「はは そう言ってもらえると
こいつも嬉しいでしょう 唇は読めるので
だいたいはわかるし」
奥さんが軽く頭を下げながらまた笑う
ほんとうにこの人の笑顔はやわらかい
ダフネは何も言葉を交わさないのに
すっかり奥さんになついてしまったように見える
「なんか不思議」とM
「ダフネちゃんのこと?」とキャプテン
「私らには子どもがないもんで
無い者同志で気が合うんでしょうかね」
それを聞いてMは食べる手をしばらく止めて
ダフネの顔をじっと見る
「私もなんだか母親の顔見たくなってきた」と言うと
キャプテンが
「Mさんはいつでも会えるじゃないですか」と笑い返す
そう言われてMも笑う
ダフネと奥さんの間には
僕らが作れなかったような
不思議なコミュニケーションがあるのかもしれない
ダフネが手の届かない料理をちらりと見ると
奥さんはすぐにそれに気づいて
ダフネの皿によそってくれる
ダフネはそういう奥さんをちらっとだけ見上げて
食べ始める
日焼けのせいか塩のせいか
なんだか僕は目頭が熱くなる
その僕の目の横をちょんとMがつついてくる
Mも涙もろいやつだということを僕は思い出す
「おやおや何だか
みんな今日は夕飯が早すぎて
ホームシックですかな」とキャプテンが笑う
ユニィオが急にワンと吠える
家とは何だろう
同じ家に住む家族とは何だろう
長く一緒に居たわけでもないのに
なんだか僕たちは家族みたいに
暑かった夏の日の終わり近く
満ち足りて幸せな夕暮れを過ごしていた