満ち潮 | 不完全な切り紙細工

不完全な切り紙細工

 誰も聴く人がいないのに歌いつづける歌がある
誰も見る人がいないのに踊りつづける踊り手がいる
誰も読む人がいないのに書きつづけられる言葉があって
不完全な切り紙細工を幾つも幾つもつなげていけば
そこに何かの絵が生まれるものと願う鋏がここにある


 「ところでMさん ずっと気になってたんだが
  その腕どうしなさったね 怪我でも?」とキャプテンが
 寝転んだ三人を遠くから見下ろすように聞いた
 「これですか 実は恐竜に噛まれちゃって」と
 起き上がりながらMが応えた
 「そりゃあまた 度胸のある恐竜ですな」
 「へへ 実は犬に引っ掻かれちゃったんです
  もう海に入っても沁みたりはしないけど」
 「そりゃいけないね」
 僕はそれを黙って聞いている
 犬に引っ掻かれた?
 それは僕とモーゼの話じゃないか
 Mが僕で
 ダフネがモーゼ?
 興味深い置き換えだなと僕は思う
 ダフネをかばって言わないのだろうが
 ダフネを犬だと言ったのがちょっと気になった

 確かにダフネはやんちゃな仔犬みたいだと思えるときもある
 でも今日のダフネは何だか少し違って見える
 ダフネは僕の腕枕でうとうととしている間に
 日焼けして赤くなっていた
 犬?
 いつまでもユニィオと同じ犬でいてはいけないのだが

 船は次第に湾に戻りつつあった
 潮が満ち始めたのか
 盛り上がる水に圧されるように船はゆっくり揺れながら
 時折エンジンの音が強まって聞こえる

 Mが波間に何かを見つけた
 「何かいる!」
 指差された方向を見ると海面のすぐ下辺りに黒い影がうねる
 やがて小さく三角の背鰭が水を切るのが見え出した
 「サメ?」とM
 「いや この辺りにはいないな」とキャプテン
 どうやらクルーザに並走している
 見ているうちに水面を割って丸い背中が見えた
 「嘘」とM
 姿をはっきりと現わさないので断言はできないが
 丸い背中と特徴的な尾からするとイルカに違いない
 「こんなところにイルカ?」とM
 キャプテンが
 「いやあ昔は結構見かけたが最近は珍しい」
 それから呼吸するシューッという音がはっきり聞こえた
 その影はなおも船に並走している
 かすかだがイルカらしい頭部が見えたかと思った瞬間
 その小さな三角形の向こう側から
 もう一頭が孤を描いて水面の上を飛んだ
 「二頭いる」

 イルカたちはそれ以上は水上に姿を見せなかったが
 ただ凄い勢いで進んでくるのが水面のうねりからはっきりとわかる
 僕はダフネを起こして
 (さてイルカは何と? ドルフィーノ? 確か「海の豚」で)
 「マーポルコだ」と言う
 ぼうっとしていたダフネの目がぱっと開いて
 「マーポルコ?!」と言うや否や飛び起きた
 船はかなりの速度で走っているので
 ダフネを飛び込ませるわけにはいかない
 僕はダフネの腰に手を回して抑えながら波間を見る
 ダフネの水着は強い日射しのせいかもうすっかり乾いていたが
 ダフネは海に飛び込もうとはせずに
 「マーポルコ!」と歓声を上げた

 ダフネがイルカを見て嬉しがっていることがよくわかった
 僕の腕の中でマーポルコと言いながら
 ダフネが何度もぴょんぴょんと飛び跳ねたからだ
 それは本当に12歳の女の子だった

 とうとう
 たった一語ではあるけれど
 僕のいい加減な記憶から引きずり出した単語が
 ダフネにぴったり通じた瞬間だった
 ミラージョは言葉が通じなかったのではなく
 蜃気楼という現象をダフネが知らなかっただけなのだ

 言葉がしかと通じるということがこんなにも
 胸を熱くするものなのだとは

 母国語ではない言葉が通じると感じた機会は今までもいくらもあった
 でもダフネに通じた「マーポルコ」ほどの経験はない
 僕はついダフネの腰に回した腕に力を入れる
 抱きしめてキスをしてやりたい気分だった

 その後も20分近く本物のイルカたちは
 クルーザーを追ってきた
 ダフネは食い入るようにイルカたちの作る水のうねりを見ていた
 いつかダフネをどこかのイルカ・ショーに連れて行こう
 イルカの肌は魚のようにツルツルではなく
 ざらざらとした感触だということと
 人間のような体温の温もりを持っていることを
 教えてやろうと僕は思った

 イルカたちが動力船を追うのを諦めて
 道を分かったとき
 ダフネが高く右手を上げて「Ĝis!」と叫んだ
 また会う日まで!

 なんて素敵な言葉だろうと僕は思う
 遠くの波間からイルカたちの甲高い
 キキキーという声が聞こえたような気がした