波 | 不完全な切り紙細工

不完全な切り紙細工

 誰も聴く人がいないのに歌いつづける歌がある
誰も見る人がいないのに踊りつづける踊り手がいる
誰も読む人がいないのに書きつづけられる言葉があって
不完全な切り紙細工を幾つも幾つもつなげていけば
そこに何かの絵が生まれるものと願う鋏がここにある


 馬鹿げた幻想
 いや幻覚
 目の前には明るい海が広がって
 暑い日射しが肌にかっと熱い
 それは空想のように僕の頭をよぎっただけなのだが
 奇妙に現実感があった

 頭の中で
 それとも目に現実と重なって映ってくるもう一つの事実
 予測などできっこない未来のことが
 生々しく感じられたのはたぶん夏の容赦ない日射しのせい

 寝転んだMの姿の向こう側の海が
 生き物のように膨らんで
 Mの身体がデッキの上をキャビンの外壁まで滑って行った
 横波が船体を押し上げたのだ
 キャプテンがキャビンの上の手すりにつかまるのが見えた
 次は僕の番だった
 よく磨き上げられたデッキを僕も滑り
 あっという間にMの身体にぶつかる

 僕は滑るデッキに両手をくっつけてブレーキをかけるが
 まだ滑りMは僕と外壁の間で押しつぶされそうになる
 Mが僕にしがみつき
 僕はこの急場でMの身体の温度と柔らかさを感じ

 「大丈夫か」とキャプテンが怒鳴る
 Mも僕のキャビンに押し付けられたまま
 辛うじて止まった

 ダフネは?
 ダフネの姿が見えない
 うねって急に競り上がってきた海水に呑まれたか
 上半身をやっと起こして海の方を見回す
 ダフネは?

 僕の視線が彷徨っていた方向とは全く違う
 船の反対側にダフネの白い腕がにゅっと現れて
 舫綱を手探りでつかみ
 ぐいと引っ張るのが見えた
 ダフネはまるでイルカかオットセイみたいに
 デッキに胴体ごと跳ね上がってくる
 次の瞬間
 船体が反動でさっきとは逆の側に傾き始め
 ダフネがデッキの上を滑って海の方へ後退する
 そこでダフネはまたイルカみたいに
 寝そべったまま身体をひん曲げて
 僕たちの方へ跳び上り
 僕の身体にぶち当たる
 僕はダフネの首をつかまえた

 「ひゅー 何 これ?」とM
 キャプテンがエンジンを始動させる音が聞こえ
 船体が動力に引き戻される
 「つかまっててくれ」とキャプテンが言う
 つかまると言っても何に?
 けっきょく僕たち三人は
 スカイダイバーみたいにお互いに抱きついて
 船が安定するまでこらえるだけだ

 「怪我してないか」とキャプテンが聞く
 「みたい」とMが応えた
 ダフネの顔を覗き込むとダフネの目が笑っていた
 「やあ すごかったなあ」と僕
 「全員確保」

 大波を蹴るように走り出すと船体は
 すっくと立ち上がったように膨れ上がった水の上で安定した
 「醍醐味 醍醐味」とキャプテンの声
 「しばらくそのままでいてくださいよ」と言うので
 僕たち三人はデッキの上で絡み合ったまま笑い出す

 僕たちは
 そしてキャプテンもまだ老いもせずに生きている
 正直言って女の子二人に挟まれて
 僕は少し戸惑っていた

 泳いでいて波をくぐり波に這い上がる感覚は
 ダフネでなくても楽しいものだ
 でもそれが船という自分の身体ではないものと一緒だと
 いや一緒になりきれずにいるせいで
 ちょっと緊張しスリルがあった
 ダフネもまるでジェットコースターの手すりにつかまるみたいに
 僕につかまってくる
 Mの腕が僕の後ろから伸びて
 ダフネの腕をつかみ「つかまえた!」と笑う

 僕たちはいつまでこうしているのだろう
 明日のこと来年のこと
 何も考えずにただお互いを感じたまま
 ずっと海の上を漂っていくのだろうか

 ユニィオは?
 ユニィオは横波を食らうまで僕たちの傍をうろうろしていた
 「ユニィオは?」と僕はキャプテンに大声で聞く
 「ここ ここ 足下」とキャプテンの笑い声
 ユニィオはけっこう臆病ものらしい
 臆病だからちゃんと身の安全を確保していたのだ

 日射しがまた強くなり
 僕たちは眠気に負けてバターみたいに
 デッキの上で融けていた