うねる潮 | 不完全な切り紙細工

不完全な切り紙細工

 誰も聴く人がいないのに歌いつづける歌がある
誰も見る人がいないのに踊りつづける踊り手がいる
誰も読む人がいないのに書きつづけられる言葉があって
不完全な切り紙細工を幾つも幾つもつなげていけば
そこに何かの絵が生まれるものと願う鋏がここにある


 そう言いながらMはまた大きく息をして
 船の小さなタラップまで泳ぐと
 デッキに上がって
 足を前に投げ出してぺたんと座る
 誰だって
 水の中のダフネと競えば相当疲れるだろう
 僕はまだしばらく浮かんだまま空を見ていた
 相変わらず雲一つない蒼
 風も凪いだのか
 Mはタオルで髪を拭ってから
 後ろ手をついて
 まだ疲れを知らないもう一頭のイルカを眺める
 何を考えているのだろう
 Mはダフネとはぜんぜん違う人間だ
 きっとこんなときも
 何かをじっと考えているだろう

 僕は何を

 僕は疲れてはいなかったが
 まださっきの深みへの降下が尾を引いて
 息苦しかった
 息が落ち着くのを待って僕もデッキに這い上がる
 Mが僕を見たので
 Mのすぐ傍に僕も座る
 日射しが熱い

 「華奢な子だと思ってたのに
  凄い力なのよね」とM
 「水の中にいると別人だからな ダフネのやつ」と僕
 「ほんとね イルカどころじゃないわ」
 僕たちがそんなことを言っている前の水面から
 飛び魚のダフネが飛び出して
 また暗い碧のなかに沈む
 「ダフネってほんとうに何も考えてないのかしら」
 「どういうこと?」
 「よくわからないけど ふっと大人の感じがした
  何か考えることがある大人の」
 「そう? 直観?」
 「気がするだけだけどね」

 「あーあ」と両腕を伸ばしてからMは後ろに倒れて
 デッキに横になって空をまぶしそうに見た
 「疲れた?」と僕
 「ううん そんなでもない
  ただダフネには適わないなと思っただけよ」
 「海の魔物ってとこだな」と僕が言うと
 「魔物というか」と言いかけてMは黙った

 「あの子にはおふたりも適わないねぇ」と
 キャプテンが僕らを見下ろしながら言う
 「いやあ見物人としては楽しいシーンの連続だが
  Mさんも相当なもんだ」
 Mはなんだか気怠げに見上げただけで何も言わなかった
 今日のMは言葉少ないなと思う
 いつもは煙幕みたいに言葉を並べて
 どこかで自分を隠しているみたいに思えるときがある
 嘘なんて決してつかないやつだが

 だからさっきも僕はMが何を考えているのか気になった
 そしてそのMはダフネが何かを考えているみたいだと言う

 僕はキャプテンの言葉に笑い返しながら
 目では横たわったMの姿を眺めていた
 一緒の部屋に寝起きして身近に居ながら
 こうやってMの身体の曲線を眺めたことはなかった
 以前も最近も何か別のことに振り回されていたからだろうか
 Mの濡れたままの足が空の光を反射してまぶしかった
 M

 「もう一時間もすると
  このあたりも潮の流れが強くなるから
  ダフネちゃんを引っぱり上げた方がいい
  まあ 波に呑まれるような子ではなさそうだが
  子どもっぽいところがあるみたいだから
  自分の状態がわからないってこともあるかもしれないし」
 そう言ったキャプテンの言葉に僕は少し驚く
 どこかあのひとの言い方に似ていると思ったからだ
 貿易商と言っても
 民芸品クラスの彫刻を主に扱っている
 どちらかと言えば地場の腰の低いおっさんだと思っていた
 よく気がつくのは商売人だからなのだろうと
 そういうイメージと今の言い方には違和感があった
 だいたい僕たちが車で花屋に来たことを
 なぜ店の人が知っていたのだろう
 
 「そうそう すっかり忘れてしまっていました
  大事な土産があったんだ」
 「お土産?」と寝そべったままでMが聞いた
 「まあ 土産と言っても菓子や民芸品じゃあないですがね
  預かりものと言うべきか はい これ」
 そう言って差し出したのは
 分厚い黄土色の封筒だった
 「先生からですよ」と言う
 数秒のあいだ僕はキャプテンの言っていることが理解できない
 『先生』?
 「コンスタンティーノポリスでお会いしました」
 それを聞いてMがぱっと起き上がる
 「そんなところに居るんですか?」とM
 「はい 御用があってヨーロッパから中東に向かう途中でした」
 あのひとの不在が長引くにつれ
 僕はあのひとは国内にはいないのだろうと思っていた
 それにしてもイスタンブールとは

 不審に思っていると察したのか
 キャプテンは「いえね 海外に出るときは時々連絡しあってまして」と付け足した
 それも奇妙なことだと僕は思う
 「連絡ってどうやって?」と聞くと
 「ははは まあ蛇の道は蛇でして」と笑う
 「お恥ずかしい話 実は私も昔は役人の端くれでして
  一頃は先生の下に居たもんで
  まあお堅い世界が性に合わないってのか」
 僕は思わず「外交官だったんですか?」と勢い込んで聞く
 「いやそんな大それたものじゃない
  通訳みたいなもんですよ
  生まれが生まれで
  あんまりメジャーでない言葉を幾つか話せたというだけでね」
 「驚きました」と僕が言うと
 「いや まあ 先生がこっちに居を構えられると伺って
  もともと私は地場の人間で
  不動産屋とつなぎをつけたのも私でね」
 Mが僕の方を見た
 驚きの表情がありありと浮かんでいる
 でももっと驚いたのは僕の方だと思う
 あのひとの「縁」という言葉が浮かんでくる

 「さあさ お読みになってくださいな
  先生も思わぬ長旅で少し困っておられたようで」


 濡れた手で封を開けると
 中には透かしの入った厚手のレターパッドが3枚入っていた
 あのひとの字だった

 「元気でいるかな
  Mさんが居るから心配はしていないが
  予想外に長旅になってしまったので心配してくれているだろう
  この老骨に今頃になって仕事が降って沸く
  日本という国の頼りない現実だと言うべきだろう」

 そう書き出していながら
 その仕事の内容にはほとんど触れていなかった
 詳しい話はできないとか
 無事に帰ったら話して聞かせることもあるだろうとか
 僕はそういう文面を読みながら
 かすかに怒りを感じていた
 昔オヤジが送ってくる写真に添えられた手紙を思い出したのだ

 2枚目に目を通す前に3枚目をちらりと見ると
 「再会を愉しみにしている」と一行
 後は一文字署名があるだけだった
 2枚目に書かれたことは僕の予想を
 驚く形で裏付けていた
 
 「アテネでダフネの叔父夫婦に会った
  Kが送った手紙を大事そうに持っていて
  何度も何度も読み返して泣いたと言っていた
  ダフネが元気そうだということだけで
  どれほど嬉しかったかと
  『宜しく頼む』とKに伝えてくれと
  繰り返し別れ際まで言われたので
  それだけは今のうちに伝えておこう

  それからダフネについて
  君たちとダフネがうまくやっていく参考になりそうな話がある
  もうKのことだから気づいているかもしれないが
  ダフネの両親は熱心なエスペラント運動家だったらしい
  小さいときからダフネにはエスペラントを強要していたそうだ
  ダフネの言葉の問題の一端はそこにある可能性が大きい
  Kは趣味でかじっただけかもしれないが
  ダフネにとっては人工の共通語が母国語にも等しいことになる
  しかしダフネはああいう子だったので
  それも十分には習得されていないようだ
  しかしこの事実はダフネの今後にプラスであると思っている

  そういうことになった理由ではないと思うが
  ダフネの母親はポーランド系の音楽一家の出だそうだ
  父親の方は技術者だということしか分からなかった
  君とダフネにはそういう共通項があったわけだ

  あと一週間か十日でまた君たちの元気な顔を見られると思う
  Ĝis la revido! 」
    
 
 Mが1枚目を読んでいる間に
 僕は2枚目を三度読み返した
 やはりそうだったのだ

 2枚目をMに手渡そうと顔を上げたとき
 また水の中から言葉を忘れたダフネの
 イルカのような高い声が聞こえた

 風が強くなり
 船が横に揺れ始めた
 うねる潮の中でなおもダフネは
 疲れを見せずに泳ぎ続けていた