昔もよく思ったことだった
海に浮かんでいると
いや水の中でなくても浜に寝転んで風を感じているときも
この感覚が終わることなく続いたら
どんなに幸せかと
いや幸せとかそういうことではなかった
ただ快い海の中にいることが
無時間に続くことを願った
日々の生活から遠く離れたまま
海の存在に
その巨大さに
自分のちっぽけな身体と生き様など忘れ去り
水に
風に成ってしまえばいいのにと
でもいつも夕方が夜がやってきて
考えてもみれば
海の水に海風に僕らが同化してしまえば
僕らは水も風も感じることはない
感覚の快さは感覚のない物と化した身にはもはやなく
快いと感じる自分もない
今は海の上にホバリングするようなクルーザと
打ち当たる小さな波と
二頭のイルカたちの泳ぎまわる水音と
後は僕を持ち上げてくる巨大な海
僕は何だかゆっくりと泳ぎながら眠りに落ちそうな気分になった
この海の向こう側には人々の生活があり
あるいは戦火に焼かれる家々や逃げ惑う子ら
混乱した政治と
自然という巨大な力を顧みなくなった人間たちの傲慢と
止まることのない悲しみが溢れ返っていることなど
みな遠ざかり
突然僕の身体に何かがぶち当たる
それはまるで猛々しい海の力のようで
しかしぬめぬめと柔らかく
海の冷たさを押しやるような温かさがあった
大きな蛸か烏賊
クラーケンのような魔物に吸い付かれたような
それでもそれは恐怖ではなく
僕の身体を快さに引きずり込むような
ダフネだった
ダフネが僕に絡み付いてきたのだ
それはプールの中で僕の傍を高速で過ぎながら
腹を見せて身体を波打たせたダフネ
僕は腕と足の自由を失って泳ぎ続けられなくなる
まるでダフネは僕を海の底に
引きずり込もうとしているように
絡み付きながら
ぐいぐいと身体をくねらせる
僕が力を抜くと
ダフネの青白い顔と大きな灰色の瞳が
僕の顔のすぐ前に現れる
ダフネの足が強力なキックを繰り返し始め
僕らは恋するイルカのように
ぐらぐらと身体を回転させながら堕ちて行く
ダフネはまだ両腕とときどき足まで使って
僕の自由を奪い続ける
でもその顔は
笑っていた
ダフネにとってこれは遊戯
すべてを解放する海の中ではしゃいだ悪ふざけ
すぐに水面の
裏返っては煌めき返す水面が数メートルも上に見えるようになり
僕は予想もしていなかったので
十分に息もしていなかったから
次第に苦しくなる
けれどこういうとき足掻いてはいけない
もっと酸素を消費することになるからだ
僕は魔物のように絡み付いてくるダフネの滑らかな身体に
抵抗するのをやめて
両手でダフネを抱いた
水面の遠い右の方向に
クルーザの船底が見え
それに寄せる波の中で複雑に屈折する光の尾が
水面から何本もの光の条になって
くるくると回っていた
こんな美しい光景を見たことはない
ましてダフネという自然児の
激しい誘惑に身を包まれて
それがずっと昔から何度も繰り返された
海への同化の感覚と重なって
僕の意識は痺れるように遠ざかっていく
そのとき
もう一頭の水色のイルカが
尾鰭を力強く振りながら近づいてきた
Mはダフネと僕の傍をくるりと回る
光の加減でMは白い腹を見せたイルカのように
僕らの上を通り過ぎた
ダフネがまた水を蹴ったので
僕の頭は海の深みに向き
徐々に暗くなって行く海水の
遥かな奥底を僕は眺める
このまま海底へ
そう思ったときダフネが僕からすうーっと離れた
まるで僕から何かを吸い取って
ことが終わったとでも言うように
するりとダフネの身体が過ぎていく
魔物の次の獲物は
今ちょうど快感に沈みかける僕らの上を
見事な曲線を描いて通り過ぎた
もう一頭のイルカだった
息が続かなかった
僕は身体を反転させて
二頭のイルカがまた絡み合って泳ぐ傍を通り抜け
できるだけ力を使わないようにしながら
水面まで昇っていく
ダフネの悪ふざけをMがほんの少しだけ楽しんで
するりと罠から逃げ出すのが見えた
水面に浮かび上がって大きく息をした
それから何十秒か
海はまた巨大な沈黙を守り
それを最初に破ったのはMの
「ファーッ」と息を継ぐ音
すぐにダフネの壊れたように高い歓声
Mがゆっくりと泳いで傍に来て
「今度は私とね」と笑った