バレの学校に戻ったのは5時半過ぎ
Mの言ったとおりダフネはもう練習を止めて
練習場のすぐ外のベンチに一人で座って待っていた
「待たせちゃったかな」とMが声をかけると
ダフネは顔を上げる
ダフネが立ち上がるまで10分ほどかかる
車に戻るとダフネが花束に気づいて
鼻を近づけて「ロゾ?」と聞いた
「聞いた?」とM
「薔薇だって言ったのかしら?」
「『薔薇なのか?』じゃないかな」
「匂いが違うから?」
それにしてもまた新しい言葉だった
「ねぇまだあの花屋さん やってるかな?」とM
「どうして?」
「ダフネに花屋さん見せてみたい」
僕はいつもと違う道を行くことにした
花屋を車から見るにはホテルの向こう側を曲がらなければいけなかったが
その道は一方通行だったので
結局大回りして駐車場の横を抜けて行く
花屋はまだやっているようだったが
道に面したシャッターを下ろし始めていた
後はきっとホテル客用の花屋になるのだろう
車を店の脇に止めると
ダフネが窓に鼻をくっつけるようにして店の中を見る
目がキラキラしているように見えたのは
店の照明がダフネの目に映っていたからだろうか
「車置いてくるかな」と僕が言ったとき
後ろからトラックがやってきてクラクションを鳴らした
Mが「また今度来ましょうよ」と言う
走り出す車の窓からまだ花屋を見ていたダフネが
「フロリイスト」と言った
「聞いた?!」とM
「ああ」と僕
今日は二つもだ
シャッターが完全に閉まるとダフネは座りなおし
とくに拘るふうでもなかった
帰り道ダフネはずっとトルコギキョウの花束を
Mがそうしていたのと同じように
ずっと大切そうに抱きかかえていた
不思議な相似形だなと僕は思う
家に戻った途端にMが「花瓶がないわ」と言う
「買ってこなくちゃいけなかった」
「どこか探せばあるんじゃないかな
奥さんのいたときには花も飾ってただろうし」と僕
家中探し回る必要はなかった
納戸の入り口近くの棚にいくつも花瓶が並んでいた
微かに埃はかぶっていたが
それでもそう長い間放っておかれたようでもなく
Mは大きめのと中くらいのを両手に持ってから
「それも」と中くらいの花瓶を持った方の手で
同じくらいのガラスの花瓶を指し示す
リビングに戻った僕とMが目にしたのは
床の上に出来上がったトルコギキョウの花の輪だった
直径2メートルくらいの大きな輪の中に
ダフネが満足そうに立っていた
「わあ 何?」と最初は少し咎めるような声を出したMだったが
すぐに「すごい」と付け足した
花は見事な円形に並べられていたが
花の軸が円の中心に向いていて
完璧な放射状の図形になっていた
しかも青と黄色が交互に並んでいる
「すごいわ」とMが繰り返す
「ときどきこんなふうにダフネは幾何学者になるんだよ」と僕
それを聞いていないふうのMが言う
「ダフネは私の心が読めるんだわ」と
「どういうこと?」と僕
「12本よ 12本
私 12ヶ月 12時間って思って12本にした」とM
確かにそれは花でできた時計のようだった
その中央に花の国のダフネが立っている
「でも12本だから円形に並べたら
どうしても時計になるよ」と僕
「そうかもしれないけど」と少し不満そうなM
でもそのとき僕は『困ったな』と思い始める
ダフネが並べたものを動かしたりしたら
もしかしたらパニックになって
でもMはそれどころではないように腕を組み
目の前の花時計に目を奪われたまま
「待って」とMは言いながら大きめの花瓶を持ってキッチンへ
水をなみなみと入れてきて
ダフネのまん前の足元へ置いた
僕はまたMの機転に驚き
それから少し
ほんの少しだけ悲しくなった
ダフネが振り返り自分の真後ろにあった紫から
一本ずつ順番に花瓶に入れ始めたからだ
それもとても丁寧に
花に触れないように茎の中央を両手で持って
それは一時間あるいは一ヶ月ずつ
時が進んでいくようにゆっくりと
Mの言うことが当たっていたかのように
でも9本目の紫を入れるとダフネは止まった
困ったように周囲を見回している
「どうしたの?」とMが待ちきれずに言ったとき
ダフネがテーブルに近寄って
二つ並んで置いてあった花瓶を交互に眺めてから
ガラスの方に手を伸ばし手にとったが
またそこで周囲を見回し始める
「水よ」とM
僕は走ってキッチンに行き
コーヒー・メーカーの下の部分を引き出して水を汲む
それを持って戻るとダフネが嬉しそうに笑って
「アクヴォ」と言った
「水だ」と僕
これで三つめだと僕は思う
ダフネが差し出したガラスの花瓶に水を注ぐと
ダフネはそれを大きな花瓶の隣において
残った三本の
明るい黄緑色2本と紫一本を
また一本ずつ運ぶ作業を再開する
「なんで9本だったの?」とMが独り言のように言った
それが9本でなかったことはすぐに分かった
ダフネが花を入れ終わった花瓶を
またすごく丁寧に持ち上げてテーブルまで持ってきて
「M K ダフネ」と言ったからだった
「ダフネ」とMがダフネを抱きしめる
9本が重要でなかったのは
その後で確かなものになる
Mが残った花瓶を洗って水を入れ
9本から紫を一本抜いて入れ直すのを
ダフネは見ていたが駄目だという動きは起こさなかった
「これ おじさまの部屋に」とMが言った
部屋はもう暗くなり始めていて
時計のように正確に夜がやってきた