ノクターンの夕べ | 不完全な切り紙細工

不完全な切り紙細工

 誰も聴く人がいないのに歌いつづける歌がある
誰も見る人がいないのに踊りつづける踊り手がいる
誰も読む人がいないのに書きつづけられる言葉があって
不完全な切り紙細工を幾つも幾つもつなげていけば
そこに何かの絵が生まれるものと願う鋏がここにある


 「ダフネも女の子なのよ」とM
 「それ意識してるのかな ダフネは?」と僕
 「どうして?」
 「だって裸みたいな恰好で走り回ったりするし」
 「あれは私が追いかけたからよ」
 「追いかけた? ああ『おっぱい騒動』の時か
  いや 今までもときどき」
 「そうなの? でも私も小学生の頃は
  風呂上りに裸で走り回って怒られた」
 「お転婆はその頃からか」
 Mはそれを聞き流して
 「服だって女の子らしいの着てたじゃない」
 「別にダフネが選んだわけじゃない」
 そう言ってからダフネがパジャマを選んだのを思い出す
 でもあれはそれほど女の子らしいものでもなく
 叔母さんがくれた中で選んだのは女の子らしいのだったか
 「とにかくね 花の扱い方は女の子らしかった」とM
 そう言えば水着を買った日も

 今夜Mはダフネと一緒に風呂に入るとは言わなかった
 ダフネもMを引っ張りにこなかった
 それで僕たちはダフネが風呂に入っている間
 ダフネの「女の子らしさ」について
 あまり深く考えるわけでもなく議論した
 ダフネが出てくると「私 先でいい?」とM
 「いいよ」
 そう言う僕の膝の上にダフネが横向きで座り
 まだ床に置かれたままの大きめの花瓶を眺め
 それからテーブルの上の花瓶を引き寄せて
 「M K ダフネ」と言う
 『これには動詞がないんだな』と思う
 でも自分の名前を最後にしたのはなぜだろう
 たぶん二色の花を一つずつ数えるように
 一つひとつの色に合わせて
 黄緑は女性に
 紫は男性に割り当てたのだろう
 それも色違いの花が
 どうしても交互に並んでいなければならないみたいに

 Mが出てくるとダフネは僕の膝から飛び降りて
 ガラス戸を開け空を見上げて
 「ステロ」と言う
 星が見えるのだろうか

 「そうだ」とM
 飾り棚に引っ掛けてあったダフネの星の絵を
 ピアノの上に飾って
 ダフネを呼んだ
 ダフネは振り返ると自分の絵を目を細めるように見ながら
 また「ステロ」と言った
 「この崖の上の家のピアノの上にふさわしい絵だわ」とM

 ダフネが跳び上がってMのそばへやってくると
 「ピアーノ ピアーノ」と言う
 「『ピアノ』って言うからだ」と僕
 「いいじゃない」とM
 「じゃあ少し静かなのでも」と僕
 「そうだ 子犬弾いたんだから」と言いかけると
 「ノクターン?」とM
 「2番なら楽譜なしでも弾けると思うけど」
 「20番がいいな」
 「うーん」と考えるM
 それから
 「そうだ さっき」と言いながら納戸に走っていく
 「あった あった」という声
 「何が?」
 「楽譜よ 20冊以上ある もっとかも
  この中にあれば」

 僕はあのひとの手紙を思い出す
 母がここでピアノを弾いたという話
 記憶の不思議で僕はすっかりピアノのあったことも含めて
 なぜか綺麗さっぱり忘れてしまっていた
 でも母だとしたら楽譜が必要だったろうか
 きっとその中にはノクターンはないだろう

 Mが両手いっぱいに楽譜の山を抱えてくる
 古そうだったが余り使った感じがしない
 僕の母のではないなと思った
 「あったあ」とMが大きな声で言う
 二冊に分冊されたノクターン集だった
 日本で出版されたものではないらしい
 「誰のかしら お母さんの?」とM
 「違うと思う」そう言ってパラパラとページをめくってみた
 母のなら書き込みがあるはずだ
 母の楽譜はまるでノートみたいに
 いや時には日記のように様々なことが書き込まれていた
 でも今見ている楽譜には何も書き込みがしてなかった
 「奥さんのかな?」
 「そうかもしれない でもそれにしたって綺麗過ぎる」と僕
 「そうね 買ってちょっと眺めただけみたいな感じがする」
 結局どこを見ても所有者の痕跡は見当たらず
 どの楽譜も似たような状態だった

 「20番がいいの?」と聞くMに僕は頷く
 「でも悲しい曲よ」
 「分かってる」と僕
 遺作とも言われる曲だけど悲しいのはそのせいじゃない
 出版されたのが最初に書かれてからずっと後になった理由を
 僕はよく知らない

 片思いをしていたショパンが書いた協奏曲2番を
 ところどころに含ませて姉の練習のために書いたのだという
 胸に迫ってくる強い思いのある曲だった
 引用された部分が浮かび上がり耳の記憶に刻まれていた
 僕は弾けはしないけれど
 多分ショパンの中で最も多く聞いた曲だったので
 次にくる音が何かさえわかるほど覚えていた
 母がこの曲を何度も何度も弾いているのを
 聞いて暮らしたからだった
 とくにオヤジが死ぬ前の時期
 日本を離れたままなかなか帰ってこなかった日々には

 それを今夜聞きたいと思うのはなぜだろう
 両親のことを思い出すのか
 あるいは留守にしているあのひとのことが気掛かりなのか
 それとも

 Mが楽譜をセットして椅子に座ると
 ダフネがいつも自分が座っている椅子に腰かける
 Mは一大決心するみたいに深呼吸して
 「当たり前だけどお母さんと比べちゃ駄目よ」と言い
 もう一度座り直して20番を弾き始めた