今日もMがダフネについていくと言うので
三人で車に乗る
後部座席に二人が乗った
僕はなんだかショーファーのように
昨夜のこともあったから今日踊るべきなのか
激しくならない練習メニューがあるのかどうか
聞いてみるとMが言うので任すことにする
道々思い出してMに尋ねた
「お母さんは何しにイギリスへ?」
「よくわからないけど
あのひとを追いかけて行ったのだと思う」
「え? あのひと?」
「オヤジよ」とM
そう言えばMはときどきJ先生のことを「あのひと」と呼んでいた
「追いかけるって?」
「私がイギリスから葉書を何回か送ったの
父親の居たことがある場所の
そうしたら何回目かの後で電話かかってきて
私が帰ったら自分もイギリスに行ってみたいって」
「行ったことなかったの?」
「母はね シェークスピアの世界が好きじゃなかったのよ
最初は素晴らしく見えた
でもそのうち善悪劇みたいな要素が鬱陶しくなったのか」
「そういうこともあるんだね」
「あるのよね」
昔を引きずっているのは僕だけじゃないんだなと思う
それからしばらくMは外の景色を眺めて黙っていたが
急に前にのり出して
「ねぇ今日午後は忙しい?」
「なぜ?」
「デートしようか」
「はあ 毎日一緒にいるのに?」
「ダフネが居ないところで」
そう言った途端にMの隣でダフネが
「ダフネ?」と聞いた
バックミラーに大きな瞳が映る
「ほら珍しく聞き耳立てているじゃないか」と僕
「だめ?」とM
僕はちょっと考えてから「いいよ」と言う
ダフネがまた「ダフネ?」を繰り返すと
Mが楽しそうに笑いながら「内緒 内緒」
「三時頃がいい」とM
三時過ぎにバレの学校に行くとMが入り口で待っていた
「踊ってるの?」と聞くと
「今日はふらふらもしてないし大丈夫だろうって
基礎練習っぽいのにしたみたいだった
踊るのって素敵ね
なんだか身体が人間から離れて
鳥や雲 川や海になって行くみたいで
見ているだけで嬉しくなっちゃうわ」
「なんかそういう感覚があるんだな Mにも」
「あるんだな? あるわよ
私もバレを習いたくなった
今更無理だけど」
「運動神経あるから楽しむ程度なら」
「そうねぇ」
「で デートって?」と僕
「行き先は決めてあるんだ
言う通りに運転してくれればいい」
なんだかちょっと前Mと
エスカレータに乗っていた夜のことを思い出し
こういうときはNoと言ったってしょうがない
僕は素直に「わかった」と言った
天気が良くて目抜き通りにも人が溢れていた
人はもう初夏を予感しながら歩いている
服の色が明るくなった
晴れの日もほどほどに湿度があって
歩くと汗ばむような気がする
だからというわけではないだろうけど
人の動きも少しゆっくりだ
車も少なくなかったので
僕はゆっくり走らせる
大きめの交差点
斜め前にはちょっと洒落た煉瓦風の色合いの
知る限りではこの街で一番大きなホテル
古くからあるのだろうか
小さな街中に堂々と構えていた
左には大きな本屋と小さいレストランが
愛らしいコントラストを作って並んでいた
昼間あまり来なかったので気づかなかったが
意外に素敵な街なのかもしれないと思う
「右に曲がって」とM
交差点を曲がったところで「ここよ」
ホテルの前だった
「駐車場はほら そこにある」
「え ちょっと待てよ ここ?」と僕
「いいから いいから」
駐車場に車を入れると
さっさと降りて歩き出すM
ホテルのビルの裏側の入り口に入っていく
明るい外から入ったせいか
中が少し暗く思える
廊下を右に曲がると
通りから見えない側の一階に花屋があった
「フローリスト」と花飾りの付いた字の看板
一面ガラス張りの店の中はそれほど強くない照明
それでも明るいのは入ったのとは反対側が
道に面していて
そこはガラス張りになっていたからだった
つーんと鼻腔に沁みてくる花の茎の匂い
壁の棚には小さな鉢植の花が並び
狭い通路のまわりにはバケツや大きな鉢が
ところ構わず居並んで
そのどれもが花で溢れかえっていた
歩くにつれて甘い花の匂いが
むせ返るほどだった
ガラス戸の中には濃い赤と白それから黄色の薔薇
名前も知らない花の数々
花屋のせいなのだろうか
濃い湿度が肌に快い
ターナーは遠い光景を描いたが
いつもそこには水があったように思う
霧 川辺 そして海
豊かな湿度が作る揺れるような空間がターナーには必要だった
花屋では遠い空間はないけれど
同じように水が満ちていた
ここはむしろ
デュフィにでも描かせればいいのだろうと思える光景
Mがまるでダフネのようにふわふわと
花の中を漂うように歩いていく
気ままに右へ左へと
花が織り上げる襞の中へ
道に面したガラスの際に
濃い紫とそれから淡い黄緑色の薔薇
こんな色の薔薇なんてあっただろうか
豊饒な薔薇とは異なる清楚な姿に目が惹きつけられた
Mはそこで立ち止まり
追いついた僕の腕に自分の腕をするりと絡ませてきた
温かなMの身体を感じる
腕が少し湿ってひんやりと冷たい
「あの家には花が必要だと思うのよ」と言う
「花なら庭にいろいろあるよ」と僕
「違うの テーブルとかに飾る花よ
なんだかガランとして殺風景じゃない どの部屋も」
考えたことがなかったけれど
そう言えばあのひとも花を飾っていたことはなかった
「男の人の家なのよね」とM
「この薔薇が気に入ったの?」と僕が聞くと
「違う これ薔薇じゃないのよ
買い物してたときにここに来たんだけど
葉っぱとか茎とか見てご覧なさいよ」
そう言われて見ると
この薔薇には棘がなかった
葉もどこか素直にすんなりと伸び
タグを見ると「トルコギキョウ」と書いてある
「桔梗? これ桔梗なのか
花びらがこんなに何重にも
桔梗って花びらは薄い一重の花じゃないのかな」と僕
トルコギキョウの文字の下に小さく
「Rosina」とカリグラフィで書かれていた
「ロジーナ? レジーナみたいだな」と僕
「レジーナ?」「女王だよ」
「やっぱりこれにしよう」とMが決めて店員に声をかける
レジーナ
いやロジーナが一本一本ガラスの壷から抜き出され
店員の腕の中で花束ができていくのを
Mと僕は黙って眺めている
外からの光の加減でときどき紫の花には
青い どちらかといえば濃紺の影が射し
それが若い芽のような色の花と
美しいコントラストを作る
「12本お願いします」とM
「そんなに?」と僕
「6本ずつでよろしいですか」と店員が言う
「なぜ12?」と聞くと
「さあなぜかしら」とMが笑った
レジの時計は4時を少し回ったところだった
「お支払いはKちゃんよ」とM
なんだ僕が払うのかと思ったけれど
それもいいなと頭のどこかで考える
店員が小さなキーで入力している間に振り返ると
視野一面
花の色と匂いのシンフォニー
小さかった頃
なぜか僕は花屋になりたいと思ったことがあった
梅雨空のなか母に連れられてでかけた街で
煉瓦を敷き詰めた舗道を歩いていたとき
花屋の店先に茎の長い花が
歩く人たちに触れそうに置かれていた
甲斐甲斐しく働いている店員の動きが楽しげで
花のことなど種類も名もわからなかったけれど
たぶん匂いと花を売る人たちに魅了されて
そう言えば僕は庭の蜜蜂が好きだった
花から花へ忙しそうに飛び回る羽音が
遠くから見ていても聞こえるような気さえしたものだ
外に出て車まで歩いているとき
急に空が暗くなって俄雨が降り出した
傘は要らないほどの
「仕事に戻る?」とMが聞いた
「いや いいよ このままダフネのところに行こう」
「じゃあ 車ここに置いて ちょっと街の中歩こうよ」とM
通りに出ると遅い午後の街
さっき車から眺めていたのとは少し違う感じの人たちが増え
その中をロジーナの花束を大事そうに抱えたMと
なんだか気恥ずかしい
「私ね こういう時間の街が好きなの」とM
なんだか叶わない夢が叶うように思える時間だと思う
コーヒーショップからは焦げたようなコーヒーの薫り
ところどころにある街路樹の緑色
すれ違う女の子たちの底抜けの笑い声
老舗らしい和菓子屋の暗い軒先
駐車禁止の標識の前に堂々と止めてある車
もう残りが少なくなったベーカリーのショーケース
人の行き交う街から
とても長い間隔たっていたような気がした
Mはきっと街を崖の上の家に連れて帰りたいのだなと思う
少しずつ傾いてくる陽射しの中でMが
「『今日は早めに終わってもいいかしら』と
校長先生が言ってたわ」と言った