ダフネは僕の首に回した腕を離そうとしない
二階に上がるときも僕はダフネを抱きあげて上がる
ダフネが前より少し重くなったような気がした
それはたぶん
ダフネが力を完全に抜いて
僕に身体を預けてしまっていたからだろう
ダフネのベッドに寝かそうとすると
ダフネが腕に力を入れ直し
しがみついてくる
「不安なのかな」と僕
「そうだと思う」とM
けっきょくまた隣り合わせにしたままのベッドの
真ん中にダフネを下ろして
「眠るまでこうしているか」
Mもまたおとなしくダフネの向こうに寝る
「嫌われちゃったかしら」とM
「そんなことないよ
ただこうなっているからそのままにしていたいんだと思う」
「そうか」とMが言ってから
三人とも黙ってしまう
暑い夜だった
ダフネにくっつかれているせいか
額が汗ばんでくる
「暑くない?」と聞くとMが起き上がって
窓を少し開けた
気持ちのいい夜風が入ってきて
一緒に波の音が聞こえる
潮の満ち干は月のせいかもしれないが
そしてそれはこの星と月とが
離れられないほど近くにいるからだったが
この夜の僕にはそんな大宇宙の物理学めいた考えはそらぞらしく
むしろ波が寄せては帰るのは
海が陸を愛さずにはいられないせいで
近づいてはみるけれど
黙りこくっている陸に負けて後退り
吐息のように静まることを繰り返すのだと思いたかった
Mはしばらく窓辺に寄りかかって
波の音を聞いていた
「ほんとに海の傍にいるのね」と言う
「海の水はまだ冷たいのかしら」
「どうだろう」
「満ち潮かな」
「そんな気がするね」
こうやって波音を聞いていると
砂浜に寝ているような気がしてくる
磯の匂いも
「ダフネが落ち着いたら浜辺に行ってみたいな」
「そうしよう ダフネも海が好きだよ」
「そう 海なんてずいぶん長いこと行ってない気がする」
「ダフネは泳ぐの好きなんだ」
「海で?」
「ちょっと前に海に飛び込んだりしてね
それからプールに連れて行ったんだけど
もうほとんどイルカ状態」
「へぇ 踊るだけじゃないんだ」
「いろんなことをする それもいつも夢中になる」
「そうなんだろうな なんか羨ましい」
「僕らもダフネくらいの頃はそうだったんじゃないかな」
「そうよね」
風が庭木の葉を鳴らして通り
それが聞こえなくなるとまた海が聞こえた
「どうしたら」とM
「何?」
「ダフネと言葉で伝え合えるのかしらね」
「言葉よりジェスチャーのほうがうまく行くみたいで
ついそれに頼ってしまうけど
でもだんだん言葉がつながるようになってきてると思う」
「長くかかりそう」
「でも他にどんな近道もないんだろう」
「絵とか音楽とかは?」
「絵はなんだかダフネにとっては独り言みたいでさ」
「そう ピアノは楽しそうだった」
「そうだね バレの関係もあるから
ピアノはいいのかもしれない
めげずに弾いてやってくれればいいと思うな」
「やってみるわ 少しずつ」
ダフネがそういう会話をじっと聞いているような気がした
「ダフネ?」とMが窓際から声をかけると
ダフネが小さく「ダフネ?」と聞き返すように言って
また僕に身体を擦り付けてきた
目を開けたまま何かを考えているように見える
「ねぇ Kちゃん」と
Mがベッドに腰を下ろして僕を見た
「私 お母さんのいない間 ここに一緒にいてもいい?」
「もちろんだよ 悪いわけがない」
「邪魔じゃないよね」
Mが泣いているような気がして僕は顔を上げてMを見る
Mが窓の方を向いた
「M」
「なに?」
「僕らの因縁は別にして」
「え?」
「できるならずっと一緒に」と僕
Mの横顔が俯くのが見えた
窓から潮風が吹き込んでMの長い髪が少し揺れる
僕は考える
海の音に旋律があるとしたら
それはきっと退いてはまた
繰り返し満ちてくるリフがすべてであるような
背景が主役になって歌い出すような
静かな絶え間ない調べにちがいない
雷鳴の激しさも
むせび泣くように風が吹くこともない
すぐにそれだとは気づけないのに
でも決して忘れてしまうことのない
今夜のMの横顔のような旋律なのかもしれないと