「久しぶりだな」と僕が椅子に座りながら言うと
「そうでもないわ」とダフネ2がゆっくりと答える
「ずっとそばにいるのに気づかなかったの?」
夜の庭は淡い照明の中にもかかわらず
くっきりと木々の影
枝ぶりの
あるいは葉叢それから花の
どこか明るい影が
黒々とした濃紺の空を背景に浮き上がっていた
「いつまで私のことをMさんに内緒にできるかしら」
「『私』?」
「ダフネのことよ」
「君はダフネじゃないだろう
それに何も秘密になどしていないさ」
「そうかしら」
「そうだよ」
「私をふつうの子どものように母親に手渡してしまうつもり?」
「君は元から僕の手の中になどいなかった」
「いたのよ 今もいる 私はダフネよ」
「違う 2だ」
「2もダフネであることに変わりはないわ」
「いや君はダフネの代わりにはならない」
「いいえ 私は明日のダフネ
ダフネはMさんに愛されてもうすぐ私に変わる」
「何を言っているのかわからない」
「そうかしら」
それからダフネ2は薄い黄色のインド更紗のような服を
ふわりと風に乗せ
部屋の中にいたはずなのに
庭の花水木の間をゆっくりと歩いて回った
「桜が咲いて散り
花水木が咲いて散り
ダフネは私になっていく」
聞きなれない音階の歌だった
「君はダフネではなくダフネを守ると言った」
「そう 守るために私がダフネになる」
「そんなことできるわけがない」
「できるとかできないとか
そんなことじゃないの
ただそうなるというだけよ
あなたが時間に手を貸してしまったから」
「そんなことはしていない」
「いいえ したの
私を遠ざけようとしたから」
薄い黄色の霞が何本もある花水木の幹を
ゆっくりと包んでいき
ダフネ2は少し俯いて
笑ったように見えた
そのとき風呂の方から
Mの叫び声が聞こえた
「来て K」
風呂場の戸を開けると
Mが濡れたままの腕をパジャマの袖に突っ込んでいるところだった
「ごめん 私じゃ持ち上げられない
また気を失っちゃった」と背を向けながら言った
バス・タブの縁に頭を載せたまま
ダフネはやわらかな漂流物のように浮かんでいた
おだやかな顔だった
「眠ってるのかと思った
声掛けても反応しない」と後ろからMの声
僕はダフネの身体の横からバス・タブに両足突っ込んで
縁に腰かけるようにしてダフネを抱き上げる
湯が絡みつくように邪魔をした
ダフネの足が膝から下へだらりと下がって揺れた
両腕は肩甲骨辺りを持ち上げている僕の左腕に載って
まっすぐに身体に沿って伸びていた
首は力を失って頭が僕の右肩にぶつかってきた
僕はダフネの裸の胸に左耳を押し当てて
心臓の鼓動を確かめようとしていた
Mがパジャマのズボンを引っ張り上げながら入ってきて
「息はちゃんとしてるわ」と言う
右肩にダフネの呼気を感じる
脱衣室の床は冷たかったので
僕はそのままダフネをリビングまで運ぶことにする
湯に温められたダフネの体温が
僕の両腕と胸に伝わってくる
ソファーに横たえるが
まだ意識は戻らないようだった
脱力したままのダフネの右腕がソファから落ちて
細い指が床に触れたのかコツンと音がした
ダフネの胸が微かだが一定の間隔で上下していた
意識を失った他は特に身体に異常があるわけでもないようで
顔は確かにMの言ったとおり
眠るようなやさしい表情を保っている
Mが湯上がりタオル持って来て
濡れて光っているダフネの身体を拭き始めた
片腕にかかえて持っていたのは
買ってきたダフネのパジャマらしい
拭き終わると「着せたほうがいいわよね」と言うので
二人がかりでダフネの足や上体を持ち上げて着せた
ダフネの身体はまた糸の切れた操り人形のようになっていて
どこかを持ち上げる度に関節から先がぶらんと垂れ下がった
「のぼせたってことはない?」と僕
「湯に入ったばかりでこうなの」とM
意識が戻らないまま数分が過ぎた
その間もずっとダフネの呼吸は静かに続き
苦しげな様子はどこにもなかった
「ほんとに眠っているみたいだな」と僕
Mも少し安心したのかふーっと深く息をつく
「こんなときに踊らせたのがいけなかったんだわ」とM
「それが原因ならそんなに心配いらないんだが」と僕
そのときになって僕は初めて
ダフネに着せた新しいパジャマが
ふっくらとやわらかな黄色であることに気づく
さらに数分が過ぎ
僕たちが他にできることがないかやっと考えられるようになったとき
ダフネの顔の辺りから
やわらかな笑い声のような音が聞こえて
ダフネが目を開け
身体の位置を少しずらしてから両手を持ち上げて
頭側の床に座っていた僕の首に回す
「ああ よかった」とMが言うと
ダフネはそちらの方を向いて
まるでバレの仕草のように右腕をふわりと
跪いていたMの方に伸ばした
Mがそれを両手で受け止めて
「ダフネ ごめんね」と言う
僕の視野の左端
庭の暗がりで薄黄色のものが動いた気がして
そちらを見たが誰もいなかった
「こういうときはあんまり激しく動いてはダメらしいよ」と
ダフネに向かって言う
ほんとうにこういうときに通じる言葉があればいいのにと
ダフネは左腕を僕の首に回し
右手をMに預けた恰好のまま
深々と息を吸い込んで
顔を僕の頬に近づけると
唇を小さく噛んだような息で
「ィエス K」と言った