もちろん僕は覚えていた
ダフネがこの間そうやって僕の胸に手を触れて
『ファントモ』と言ったときのことを
それは風呂に一緒に来てほしいという意味だった
少なくともあのときは
それから『ファントモ』が
日頃の日本語には
あるいは英語であれ何語であれ
普通に使うどの語にも置き換えられない意味を
それも少しずつ使われるたびに変わって行く意味を
持つようになったことも
そのつど変わっていったと思える一方で
もしかしたらダフネにとっては
相変わらず何か特定できる
たったひとつの意味か物事を
表わしているのかもしれなかったが
僕には次第に深まる意味としかとらえられなかった
十歩さがって変化していく意味合いに共通で
ずっと変わらないことがあるのだとしたら
それは「素晴らしい」や「素敵」のようでもあり
また「私とあなたのつながりは強いのだ」と
言っているようにも聞こえたのだと思う
しかしその元々の意味はたぶん「幻」
幻は素晴らしく美しい
しかも時として近づきがたいほどになり
それが僕らの
ダフネと僕のつながりを深めてきたのだとも
でも僕はMに
「それはお風呂に一緒に来てよ」ということだったとは言わない
そんなことを言えばMの冗談が冗談でなくなるかもしれず
ましてやそういう意味合いだと決めつけられる証拠を
全く欠いていた
「いや 『私はあなたのファンで 友だちよ』だろ」と
誰も信じないだろうことを言う僕
「そうだったのか 私にもそう言ってくれたのね」とM
確かに霧の朝ダフネはMにそう繰り返し言ったのだろう
そのときもMは意味を知りたがっていた
だからと言ってこんな取って付けたような説明を
真に受ける人がいるはずもなかったが
あっさりMはそれを信じ納得したように言う
Mらしいなと僕は思う
たぶん信じきっては居ないけれど
それをしばらくは真に受けた振りをする
いやたぶん本当に真に受けるのだ
でもいつかまた機会があれば尋ねてくるだろう
Mは保留上手な人間なのだ
それまではこれで
そう思った途端にMが言った
「『オペラ座の怪人』も
Le Fantôme de l'Opéra だったわよね」と
考えてもみないことだったが
言われてみれば僕はダフネをさらってきて
その不思議さに夢中になり
とうとう崖の上の家に監禁してしまった怪人なのかもしれない
僕には悪意は微塵もなかったが
それはあのオペラ座の怪人も同じだったろう
あるいはそのダフネと僕を
あのひとがさらい
それから今はダフネと僕とあのひとがMを
「オペラ座か」と僕
「そりゃあ Kちゃんはある意味怪人よね」とM
「まさか 何でだよ この平凡な人間が怪人?」
「だってKはあの部屋に一人で住んで人を寄せつけず」
「寄せつけてるだろ」と僕
「まあね たまに誰か気にいったら
そして今はダフネね」と笑う
「僕はダフネを監禁してるかな」
「ううん 全然 でもこれは何だか普通じゃないとは思う」
「Mも今やその不思議サーカスの団員だな」と僕
それからまだそこに立っているダフネに
「さあ ダフネ M お風呂」と言う
ダフネがまた「ファントモ」と言い返す
それを聞いたMが
「やっぱり何か意味が違うわよ
Kも一緒に入ろうと言っているみたいじゃない?」と
僕の顔をまっすぐに見ながら言う
「はいはい わかりましたよ じゃあ
風呂場まで一緒に行こうね」と
ダフネの肩を抱いて僕は歩き出す
風呂場まで来ると僕はふたりを置いて
さっさと戸を後ろ手に閉めてしまう
中からダフネがまた「ファントモ」と言ったけれど
それは一回だけで
すぐに静かになった