朝霧 | 不完全な切り紙細工

不完全な切り紙細工

 誰も聴く人がいないのに歌いつづける歌がある
誰も見る人がいないのに踊りつづける踊り手がいる
誰も読む人がいないのに書きつづけられる言葉があって
不完全な切り紙細工を幾つも幾つもつなげていけば
そこに何かの絵が生まれるものと願う鋏がここにある


 「私も一緒に入ってこよう」とM
 そう言って風呂に降りて行った
 ダフネと一緒に?
 僕は止めなかった
 ダフネはMに懐いているようにさえ見えた
 それにダフネがパニックを起こしても
 それはそのときだと思う
 それも必要なことかもしれないし
 今日のMはダフネにちゃんと対処してくれている

 Mが降りて行き暫くすると
 風呂の方から甲高い声が聞こえてきた
 笑い声だった
 最初は誰の声かわからなかった
 ダフネの声は少しハスキーなところがあった
 Mはそうでもない
 どちらの声でもないような気がしたが
 Mだろうと思う
 女同士だとこんなものなのか
 ダフネにしても抵抗もなく
 すっかりMに馴染んでいる
 もっと早くこうすればよかったのかと思う
 でもMが帰ってきたのはまだ昨日
 いや一昨日のことだ
 いくら早く思いついたとしても
 どうにもならなかったのだから
 そんな過去についての仮定は虚しい

 僕はベッドにひっくり返る
 物事が予想よりも先に
 どんどんと進んでしまうような気がする
 この部屋の三つのベッド
 僕たち親子がここに来たときに泊めてもらった部屋
 ダフネが使っているのが僕のベッド
 僕が今転がっているのがオヤジのベッドだった
 そしてMが

 そんなことを考えていると
 すごい勢いで
 階段を駆け上がってくる足音がした
 僕は跳ね起きる
 ダフネが部屋に飛び込んできた
 パジャマのズボンだけはいて
 上半身はまだ濡れたままなのか
 白い肌が暗闇で光った
 そのままベッドに跳び込んで布団の中へ

 すぐにMが入ってきて部屋の灯りを点けた
 ちゃんとパジャマを着て
 でも長い髪の毛は濡れたままなのか
 パジャマが濡れていた
 少し息が荒い
 階段を駆け上がったくらいで息が切れるMじゃない
 「もう 何なの この子」
 「どうかした?」と僕は平静を装って聞く
 「ダフネったら何か欲求不満なの?
  私のおっぱい揉みくちゃにするんだから
  最後には」
 そこまで言ってMは止め
 「まったくもう」と言いながら
 額に張り付いていた髪を払いのける
 顔が赤い
 バーボン煽って風呂に入ったせいだろうか
 Mらしくもないなと思う

 でもMは怒っているようには見えない
 あのひきつったような笑い声はそれか
 「別に欲求不満じゃないと思うけど
  心が分からない分だけ身体に関心があるというか
  身体に関わってくることが多いんだよ」と
 そう言ってから後悔する
 「心が分からない」は言い過ぎだった
 でも打てば響くようなMといつの間にか比べていた
 「どういうこと?」とM
 「いや だからね その話は明日にでもと」
 「話って?」
 「その ダフネはちょっと普通の子じゃないわけで」
 「そんなこと分かるわよ」とM
 「だいたい ひとのおっぱいで遊ばなくってもいいじゃない
  自分だって可愛いおっぱいしてるんだし」
 「あのねぇ」と僕
 「その『おっぱい おっぱい』って大きな声で言うの
  やめてくれないかな」
 「あのねぇ 女におっぱいあるのは当たり前
  大きかろうと小さかろうと 何がいけないって言うのよ」
 こうなるともうほとんど酔って下ネタ連発のM
 なかなか止められない

 「もう」の連発が一段落するとMはベッドに腰を下ろして
 肩にひっかけていたタオルで髪をぐるっと巻くと
 「ふーっ」と大きく息を吐き
 膝に頬杖ついて息を整える
 「ほんと 変な子」
 それが文句の最後だった
 「私にどうしろって?」とM
 「それはだね
  この家にはダフネ以外に女性はいない
  もう長いこと女なんか見向きもしなかった老人と
  勝手に老人みたいな心境になってる僕と
  いずれにしても男だけで
  わからないことがあると思うんだよね
  ダフネも女の子なんだから

  毎日なんて言わない
  一日おき
  いや週に一回でもいいから此処に来て
  僕たちが気づいていないこととか
  見てやってくれないかな」
 会ってから数時間経ってやっと言いたいことを言った
 MがNoならあのひとの姪に頼めばいいし

 「分かったわ」と溜め息混じりにMが言う
 「言いたいことはわかった」と
 「勝手な願いかもしれないと思うんだけど」と僕
 ダフネの方を見ながら
 「いいわよ」とMが言うのを僕はじっと聴く
 「Kがダフネのお父さん役をしたいなら
  母親になってもいい
  私はKの奥さんじゃないけどね」
 どう言おうかと思っているとMが言う
 「やっぱりお姉さんにしとく
  歳は十二だってあんなに大きな子
  産んだ覚えないものね」
 そう言って頭のタオルを解いて髪に触ってみる
 「やっぱり髪乾かしてくる」と立ち上がりながら
 「お風呂は?」と聞く
 「髪乾かしたいんだろ」と僕が聞き返す
 「じゃ入ってよ その間に乾かす」とM

 ドライヤの音を聞きながら
 黙って僕は湯船に浸かる
 「ねぇKちゃん」と外からM
 「何?」
 「あの子 ダフネ とても可愛い
  女の私が言うのも変だけどゾクッとする
  なんていうか
  動物みたいな感じ」
 「そう? そうかもね 動物か」と僕
 『動物みたい』それはあのひとの言葉で言えば獣
 やっぱりそう感じさせる何かがあるんだなと
 「Kもよ でもKは狼になれない狼男よね」
 僕はそれには答えなかった
 「狼になれって言ってるわけじゃないから
 じゃ先に部屋に戻ってるから」とMは言って
 静かに出て行った
 どこかで汽笛がなるような音がした

 部屋に戻るとMはもう眠っていた
 その腕の下にダフネ
 さっきの恰好のまま
 温かい夜だった
 僕はダフネのベッドからタオル地の上掛けシーツをとって
 Mとダフネにかけてやる
 『動物か』と喉の奥で僕は言う
 これはいい出発なんだろうかと考える


 朝方気がつくと
 Mもダフネも部屋に居なかった
 時計は5時少し過ぎ
 一階かなと思って階段まで行って耳を澄ますが気配がない
 部屋に戻って窓を開けて驚いた
 辛うじて庭木の枝が少し見えるほどの霧
 遠くは全く見えない
 さっきのは霧笛だったのか
 その霧の中を歩く人影が見えたような気がした