霧笛幻想 | 不完全な切り紙細工

不完全な切り紙細工

 誰も聴く人がいないのに歌いつづける歌がある
誰も見る人がいないのに踊りつづける踊り手がいる
誰も読む人がいないのに書きつづけられる言葉があって
不完全な切り紙細工を幾つも幾つもつなげていけば
そこに何かの絵が生まれるものと願う鋏がここにある


 山の上でなら霧に巻かれたことは何度もある
 目の前の地面の上を雲が湧いて動くようなのもあれば
 ほんとうに身動き一つすべきでないような濃い霧もある
 霧が単に水に牛乳を落としたように空気の白濁だけなら
 それは薄まっていつか分からなくなる
 でもたいてい僕たちは霧が押し寄せる水の粒だと気づく
 顔も髪も服もびしょ濡れになる

 崖の上のこの家でこんなに濃い霧を経験したことはない
 小さいときから何度も来た場所で
 この二ヶ月ほどずっと居ていろいろな天候を経験したけれど
 庭の崖側のフェンスさえ見えなかった
 僕が居る二階の部屋が船室なら
 庭はもう海だったに違いない
 その水面を這うようにして船に迫る霧

 ぼんやりと日が昇り始めて
 銀灰色の空気の濁りが次第に白濁に変わって行く
 明らかに光が射しているのだけれど形が何も見えない
 雪に四方を囲まれ服にも雪が吹き付けて
 視野一面が白くなれば人は視力を失うものだ
 それを雪闇と言うのなら
 崖の上に座礁したこの船は霧闇に包まれている

 その船を包み込むように霧がさらに深くなる
 その霧の足下の水面を
 一人の若い女と一人の少女が連れ立って歩いていく
 霧笛がまるで巨大な竜の喉のように鳴り
 ここには陸がありその周囲には暗礁があると警告する
 でも何故だろう
 海の底から聞こえてくるようなその声は誰かを呼んでいる

 霧の闇の中で「来るな」ではなく「来い」と
 霧笛は海の喉なのか
 二人は吸い寄せられるように進み
 何もない空間に惹き付けられる
 「これは何なの?」と言い交わしながら
 何であるか理解することもできないままに
 霧笛がまたぼおーと呼んだ

 だがそんなはずはない
 電波を我がものにした人間と船舶には霧笛は無用
 岬の灯台の霧笛も廃止されて何年も経っているはず
 この声は時間を超えて遠い時代から涌き上るのか
 見失った仲間を一人でも多く呼び戻そうと
 形を失った世界を親しげに取り戻そうと
 誰なのか?それとも何か?