夜の船 | 不完全な切り紙細工

不完全な切り紙細工

 誰も聴く人がいないのに歌いつづける歌がある
誰も見る人がいないのに踊りつづける踊り手がいる
誰も読む人がいないのに書きつづけられる言葉があって
不完全な切り紙細工を幾つも幾つもつなげていけば
そこに何かの絵が生まれるものと願う鋏がここにある


 ここにいると街の中と違う夜の更け方がある
 そんな気がする
 周辺には家は無い
 だからここでロック・バンドがヘビメタっても
 地鳴りみたいな低音をうならせても
 驚くのは鳥たちくらいかもしれない

 ましてや人が話しては笑う声など
 浜から見上げたとしても聞こえはしない
 ただ静かな家に夜更けて灯りが点いているだけだ
 その中でどんなに話が弾んでいようと
 それはまるで
 大きな船が夜の海を進んでいる中で
 パーティをしているようなものかもしれなかった

 11時を過ぎた頃にあのひとが
 コム・ゴギャンに言う「もう仕舞ってもらってもいいよ」と
 でも亭主は話が楽しいのか
 ダフネの振る舞いに前にも増して興味を惹かれたのか
 「いや お邪魔でなければもう少し居させてやってください」と
 あのひとの向こう側にキッチンの椅子を置いて
 座って楽しそうにしている

 ダフネはMにまとわりついているわけではなく
 いつものように床に座って
 庭を見たりバレのポーズを試みたりする
 眠くならないのかまだ起きている
 そしてときどき不意にテーブルに加わる

 Mはあのひとの経験談に惹き付けられている
 「政治の世界は退屈だったんですか」と聞く
 「いや退屈というわけではない
  ただ自分の棲む場所じゃないなとね
  それまでも政治家は嫌というほど知っている
  その中の何人かが私を推した結果だったが
  その何人かはまだマシな連中だったがね」
 そういう話も亭主には面白いらしかった

 「ところでMさん
  あなたは何が専門ですか?」とあのひとが聞き返す
  これはあのひとがMに関心を持った証拠だった
 「統計学なんですよね
  でも社会科学・人文科学関係ですけど」
 「ああじゃあK君とはそのつながり?
  イギリスはその関係で?」
 「ええと最初の方の質問はまあイエス
  かしら?」とMが僕の方をちらりと見る
 「後の方は違います」
 「聞いてよろしいか」
 「あまりしっかりした理由じゃありません
  父が行ってたところを見に行きたくなって」
 「お父さんもその関係?」
 「いえシェークスピア」

 あのひとの反応は少し大袈裟に思えた
 「ほおシェークスピア
  私が外交官の道を目指したきっかけだ」
 僕も初めて聞く話だった
 だいたいそういう話をあのひとがするのは
 そう多くないことだった
 いつもよりおしゃべりだなと僕は思う
 「へえ外交官がシェークスピア?」とMが聞き返す
 「言葉の魔力というかね
  言葉が出来事を大きく左右する
  そういう時代が素晴らしく思えたのですよ
  後から思えば
  言葉はたいしたことができるわけではなかったが」
 「でも外交の世界ってなんだかドラマがいっぱい
  じゃないんですか」とM
 「まあ実際は事務的な交渉ごとの山で
  言葉が生きるのはほんの少し
  非常に限られた推移の中だけだと思う」
 そう言ってあのひとは何かを思い出すような目になる
 その表情を見てMは黙った

 「ほお 先生がシェークスピア
  そんな話私も初めて聞きましたな」と亭主が口を挟む
 「まあ恐ろしく古い話だったな
  若い人を見ていて思い出しただけだよ
  お恥ずかしい話だった
  私のように文学とは縁もない人間が言ってもね」
 Mがまだ黙っているので
 僕はJ先生の話をする気になる
 「実はMのお父さんに僕はずいぶんお世話になったんです」
 「ほお君もシェークスピアに関心があったか」
 「あ いえ無いとは言えませんけど
  オヤジがJ先生と知り合いだったので」
 言うべきではなかったかと思いながらMを見る
 Mは特にこの話題を嫌がるふうでもなかったが何も言わなかった
 それを聞くとあのひとは一瞬何かを考えて
 「先生って大学の?」
 「ええ」と僕
 「それは縁だな わかったぞ 君たちは小さいときから
  知り合いだったんだな」
 「いえ 違うと思います」とMが言う
 「知らなかったけれど世界が狭くて」
 その言葉は本当だと思う
 世界が狭かったのだ
 僕とMのつながりを見事に表現していると僕は思う
 
 それから僕は『待てよ』と思う
 これはあのひと一流の誘導尋問かもしれない
 ひどくおしゃべりに見え
 軽い話し方で話すのは何かを知りたいときの
 あのひとのやり方でもあった
 コム・ゴギャンの亭主も聞いているし
 それ以上の話はMもしたがらないかもしれないと
 僕は黙ったがMは黙らなかった
 酒のせいもある
 もしかしたら時差ぼけも

 「私 Kちゃんに父をとられちゃって」とM
 「そりゃまた」とあのひとが驚いたように言う
 でもやっぱりこれはあのひとの外交術だと僕は思う
 「M」と僕が言うとMは少し笑って
 「そんなふうに思ったこともあったけ ねぇ」と
 僕の方を見た
 僕は言うべき言葉がなく黙って頷く

 「そうか 細かなことを聞くべきときでもなさそうだ
  それにしても浅からぬ縁ということらしい
  自然な流れなのか」
 そう言ってグラスのバーボンを飲み干した
 「今」と言ってほんの少しだけ口を閉じて
 僕の方を見ながら言い足す
 「君のオヤジさんがここに居たら何と言ったろう」
 そう
 オヤジがこの三人を結びつけている糸だった
 人と人の結び目はなんと奇妙なのだろうと改めて思いはしたが
 でも思い出話はもう十分だと僕は思う
 既に居ない人たちのことを今思い出す必要があるのだろうかと
 「あなたのお父さんも亡くなったのだったね」と
 あのひとが話を続けようとする
 Mは「はい」とだけ答え
 僕が話を変えようと何か言おうとする前に
 あのひとが駄目押しするように言う
 「美しい死 シェークスピアの主題じゃないかね」
 なぜ「美しい」なのか僕には全く分からなかったが
 それを聞いて何か言える人間はこの部屋にはいなかった
 
 沈黙を破ったのはダフネだった
 両腕をぐにゃりと伸ばして「ふぁあ」とアクビ
 1時を過ぎていた
 「お そろそろ眠いか
  部屋だけど少し黴臭い部屋でよければ
  使ってもらってもいいのだが」とあのひとが言った
 コム・ゴギャンの亭主が「もうこんな時間でしたか」と立ち上がる
 Mは何か考え込んでいるようだったが
 ワン・テンポ遅れて
 「あ すみません でもダフネちゃんと一緒の部屋でも」と言う
 あのひとがそれを聞いて僕をちらりと見ながら
 「ダフネはK君と一緒の部屋なんだが
  あなたは」と言う
 Mは少し驚いたような目をしたが
 すぐに
 「それなら私も」と言った
 「私 Kちゃんとは何度も雑魚寝したことあるので」
 帰り支度していた亭主が面白そうにMを見る
 「まあダフネがオーケーなら後は君らで決めればいい
  幸いベッドは三つある」

 時間は船みたいなものだと思う
 たまたま乗り合わせただけの人を
 一緒に運んで行く
 船を降りることはできない
 船の外は海なのだ

 後から気づいたのだけれど
 あのひとがMに用意した「黴臭い」部屋は
 あのひとの奥さんの部屋だったと思う
 黴臭いと言ったのは本当ではない
 いつも奇麗に掃除されていた
 思い出の品もそのままだったのかもしれない
 それをMに
 それはきっとあのひとにとって最大限の
 歓待の仕方だったのだ