今夜はともに | 不完全な切り紙細工

不完全な切り紙細工

 誰も聴く人がいないのに歌いつづける歌がある
誰も見る人がいないのに踊りつづける踊り手がいる
誰も読む人がいないのに書きつづけられる言葉があって
不完全な切り紙細工を幾つも幾つもつなげていけば
そこに何かの絵が生まれるものと願う鋏がここにある


 時の狭間で人は生きている
 時間が無ければ人は生まれもしなければ死にもしないし
 生きることもない

 キスに挟み撃ちされたダフネは
 まだ生まれてから十年ちょっと
 思わぬキスの贈り物をしてしまった
 Mと僕はその二倍は生きていたが
 珍しく迎えに出てきたあのひとは
 Mと僕の三倍近く生き
 計算がすべてならダフネの六倍も生きたことになる
 その四人が同じ夜の中にいた

 車から降りると
 Mは背筋をぴんと伸ばして
 「はじめまして Jです」と言った
 それは僕には聞き慣れないMの自己紹介だったが
 「ようこそ 食事の支度ができています」とあのひとが言うと
 「私 おなかがペコペコです」とMは屈託なく笑った
 後部座席から出てきたダフネがMの傍に立つと
 Mのほうが数センチ高いだけだった
 Mはヒールの高い靴をはかないので
 数センチの差は正味の差だった
 Mはたしか165くらいだったから
 やはりダフネは160近くあることになる
 身体つきもどこか似ている気がしたが
 まだダフネのほうが子どもらしい線の細さがあった
 
 玄関の灯りの中に入ったとき
 Mが少し大きな声で
 「ダフネちゃん ちょっと待って」と言った
 ダフネの左頬にかすかに口紅がついていた
 これもまた珍しいなと僕は思う
 Mはあまり化粧をしない
 予想外のキス・マークを拭き取ろうとMが手を伸ばしたが
 ダフネはするりと身をかわし部屋の中へ
 「困っちゃうな」とM
 あのひとはそれを見逃さないけれど何も言わない

 リビングにはコム・ゴギャンの亭主が笑顔で待っていた
 「お久しぶり ダフネさん」と亭主は言い
 「ええとそれからこの素敵なお客様は」
 「Mと呼んでください」とM
 「料理がお口に合いますように」と
 もう亭主はMの雰囲気を見取ったか
 それにしてもなぜ急にJの姓を名乗り
 今またMと言ったのだろう
 これがMのよそ行きの自己紹介の形だったのだろうか

 亭主がテーブルに用意していたものから見ると
 席順はあのひとの隣がダフネで
 それからMそして僕だった
 でもダフネがさっさと僕の隣に座ったので
 Mはちょっと僕を見たが
 そのままあのひとの隣に座った
 そしてすかさずMはダフネの頬をティッシュで拭いた

 「さあさあ まず一杯」とあのひとが言い
 ワインが注がれるとMが「少しでいいです」と
 珍しいことばかりだなと僕は思う
 『こいつはウワバミなんですよ』と言ってもよかったが
 僕はそれを言わずに小さく声をたてて笑う
 それだけであのひとにはわかるだろうと
 「では」とあのひとが言う
 「いい夜になりますように」

 最初はMがイギリスの話を少しした
 元外交官は嬉しそうにそれを聴き
 ときどき自分の経験で口を挟んだ
 それからMが
 「久しぶりなんです Kちゃんとは」と言い
 「なんだかこんな御馳走を一緒に
  それにお宅に伺うなんて思ってもいませんでした」
 あのひとは微笑んでそれを聴き
 特に何も言わなかったが
 「ダフネは面白い子でしょう?」と聞いた
 それに対して今度はMが微笑んだだけだった
 「K君がダフネのことであなたにお願いしたいと言ったので
  少し驚きましてね」
 「なぜですか?」とM
 「いや K君が K君にそんなに親しい人がいるというのが
  不思議でね
  子どもの頃から知っていたので
  時間が経ったのだなと」
 「Kちゃんて余り自分のこと言わないですから」とM
 「親しいのかどうか私にもよくわからないくらいですから」
 これにもあのひとは笑うが何も聞かない
 何にせよここまでMはやってきて
 楽しそうに食事をしているのだから
 そしてときどき僕を見るMの目つきで十分だったのだろう

 「あ そうだ」とMが思い出したように言い
 立ち上がって自分のバッグの中から
 奇麗に包装された15センチほどの箱を取り出した
 箱には濃紺のリボン
 それを持って僕のところに来てテーブルの上に置き
 「おめでとう しばらくは私と同い年ね」と言った
 「本当は昨日渡したかったけど母が今朝出かけることになってたので
  一日遅れだけど」
 それを聞いて「おお」とあのひとと亭主が同時に言った
 「五月だったのは覚えていたが昨日だったか
  そりゃすまんことをしたが
  じゃあこれはMさん歓迎のついでに
  K君のバースディ・パーティにもしよう」
 当人が忘れていたのだから当然だと思う
 だいたい僕はMに自分の誕生日なんか言ったろうかと思う
 それでも素直に僕は嬉しかった
 「ありがとう 僕自身すっかり忘れてた」と言うと
 「そんなことだと思った」とM

 「開けていい?」と聞くとMが首を横に振って
 「だめよ わたしからの個人的なプレゼントだから」と言う
 「ほお」と言ったのはあのひと
 「へへ 嘘よ どうぞ」
 手に取ると意外に重かった
 布を張った箱が出てきてその中には
 透明なガラスの人魚姫
 「コペンハーゲン!」とあのひとが言う
 確かにアンデルセンの人魚姫だったけれど
 僕は少し面食らう
 「デンマークにも行ったの」と聞いたのと
 Mが「行ったわけじゃないんだけど
 それにニュー・ヨークで買ったし」と言った声が重なった
 「こういうものなら贈ったのが私だって
  覚えていてくれるかと思って」
 「Mさんもスイマー?」とあのひとが聞く
 「そんなでも」とM
 やれやれ
 確かにニュー・ヨーク土産の人魚姫なら
 それをくれたのがMであることも
 どうしてなのかも記憶に残りそうだった
 どういうつもりなのかわからなかったけれど
 テーブルの上の人魚姫はキラキラと光って見えた
 
 それを見ていたダフネが手を伸ばして
 人魚姫のツルツルとしたガラスの感触を確かめるように
 何度も触る

 なんだかダフネの話をする暇もないような気がしてくる
 確かに久しぶりに会ったのだ
 いろいろな出来事
 Mと僕に関わる出来事を思い起こすのも当然だったし
 ダフネのことをMにいろいろと話すことだけを
 考えるべきでもなかったなと僕は思う
 
 それにMはすっかりくつろいだふうで
 酒豪の本領が次第に見え始め
 あのひとが「ワインではなくて他の」と言いかけると
 Mはまたバッグからいつものバーボンの瓶を取り出して
 「Kちゃんと飲むんならと思って持ってきました」と
 それを見てあのひとがまた「ほお」と言う
 これならMは「私もうそろそろ帰ります」とは言わないだろう
 ダフネの話は明日でもいいと僕は思う

 「失礼だが」とあのひとが微笑みながら言う
 「Mさんはさっきの話だとK君より一つ年上?
  K君も歳より若く見えるがあなたはもっとだね」
 「外交官らしくないですねぇ」とM
 そろそろ酒が回ってきたのか
 「はい そうです だって私のほうがしっかりしてますし」
 それを聞いてあのひとが吹き出した
 「え おかしいですか?」とM
 「Mさん あなたがK君とうまくやっていける理由がわかったような」と
 あのひとはバーボンのグラスをMのグラスに寄せて
 カチリと鳴らした
 「だといいんですけど」と少し嬉しそうなM

 もうお腹がいっぱいになって
 さっきから人魚姫に夢中になっていたダフネが
 立ち上がってMの横に立ち
 車の中でと同じようにMの肩に手を置いた
 あのひとが興味深そうに見る
 Mは「なあに?」と言って顔を上げ
 それから「きゃっ」と小さく悲鳴をあげる
 ダフネがMの胸に手を伸ばして
 ブラウスの上からつかんだからだった
 でもMはダフネの顔をじっと見
 ダフネの手を払いのけようとはしなかった
 しばらく考えて
 「私はお母さんじゃないわよ ダフネ」とM
 すかさずあのひとが言う
 「いや多分 人魚姫の胸を見たからだと思う」
 Mは赤くなって
 「それも違うと思うけどな」と照れたように笑った

 ダフネは手を引っ込めると
 今度はMを検分するみたいにMの左右に行ったり来たりし始め
 やがて両肩に手を置いて
 Mの髪に鼻を埋めた
 「どうやら ダフネはMさんが気に入ったらしい」と
 あのひとが言う
 「俄作りですが 飲みながらでも食べられるようなのを」と
 コム・ゴギャンの亭主が清楚な花のように着飾らせたケーキを
 テーブルに
 「わあ奇麗」とMが言い
 ダフネが席に戻った


 時間
 いろいろな人がその中で出会い
 ひとときをともに過ごす
 そこに意味を探す必要はない
 意味によって保証されなければ価値がないというわけではない
 ともに時間を過ごすことそれ自体がこれほどまでに
 温かなものだということに僕は酔う
 ときには酔いが危険をもたらすこともあるにせよ
 出会いは酒のように甘いのだ