吸い葛の花 | 不完全な切り紙細工

不完全な切り紙細工

 誰も聴く人がいないのに歌いつづける歌がある
誰も見る人がいないのに踊りつづける踊り手がいる
誰も読む人がいないのに書きつづけられる言葉があって
不完全な切り紙細工を幾つも幾つもつなげていけば
そこに何かの絵が生まれるものと願う鋏がここにある


 雨戸を開けると
 甘い匂いが外気と一緒に飛び込んできた
 ダフネに抱きつかれたときのように

 すぐ傍にダフネが居るのかと思ったが
 そうではなかった
 どこかで嗅いだことがある

 庭の隅
 玄関の方に回る小径の横に竹垣がある
 しばらくここに住んでいるのに
 気がつかずに過ごしたなんて信じられなかった
 家の中から見るとちょうど壁に
 隠れる位置にあるからだろうか
 吸い葛の花が竹垣を覆っていた
 余りに密集した葉と蔦が
 巨大な鳥の巣のように膨らんで茂っているせいで
 見間違えていたのだろうか
 白い花はまだ黄色くなってはいない
 金銀の花が同じ枝に居並ぶようになるのは
 もう少し後だろう

 祖父の家は山側にあって庭に小山の崖があった
 その崖に裾に吸い葛が繁茂していたのだ
 蔦は強く引っ張っても簡単には切れない
 そして恐ろしく生命力のある植物だった
 どこだったか外国では吸い葛が
 森を殺したという話がなかっただろうか
 忍冬の名の起こりとも言われる黒い硬い実を
 いくつか蒔いておけば
 数年もすれば吸い葛の葉と蔦の集合体の
 厚さは1メートルほどにもなるだろう

 甘い芳香は果物を連想させる
 糖分が多いから昔は砂糖の代わりだったとか
 ダフネの匂いに似ていた
 指ほどの大きさの
 おしゃべりな唇みたいな白い花が一面に
 これだけ咲けばこの甘い匂いも当然だった
 それを今朝まで気づかなかったのは
 ここが海の傍で匂いが風に散らされるからなのか
 雨戸を開けたとき
 ちょうど風はほとんど凪いでいた
 気温のせいもあって
 崖の上の家を過ぎて行く風は
 その芳香も強弱も乾湿の度合いも日ごとに変わる

 光が作り出した映像でない
 生きたダフネがひょいと目の前に
 おやおやまたダフネに出し抜かれたか
 ダフネは吸い葛の花をいくつも口にくわえていた
 甘いのかと聞きたくなる
 短く折って髪にも挿していた
 おかげでダフネは首から上が花になっていた
 もしかしてダフネはさっき吸い葛を探していたのだろうか

 観賞用に薬草に色々と使われてきたし
 ヨーロッパでは昔から建物のどこかにデザインされていて
 ここに吸い葛があっても何の不思議でもないのだけれど
 僕の古い記憶の家と
 この家とに同じように茂った吸い葛があったのは
 人間の世界の偶然の不思議さだった

 ダフネが手に持っていた蔦を僕に差し出して
 僕が受け取る前に僕の腕に巻き付けた
 吸い葛の花が二つ

 季節はどんどんと夏へと向かっているのだろう