泥んこのダフネ | 不完全な切り紙細工

不完全な切り紙細工

 誰も聴く人がいないのに歌いつづける歌がある
誰も見る人がいないのに踊りつづける踊り手がいる
誰も読む人がいないのに書きつづけられる言葉があって
不完全な切り紙細工を幾つも幾つもつなげていけば
そこに何かの絵が生まれるものと願う鋏がここにある


 真夜中の帰り道
 ダフネはときどき浜の方を振り返る
 何があったわけでもなかったが
 ダフネにとっては崖の上の家よりは
 ボートの海に近いのだろう

 ダフネはずっと僕の腕を抱いたまま
 何度か僕を見上げては
 小さな声で「ボート」と言った
 その度に僕の胸は痛んだ
 「わかったよ」と僕は言ったが
 わかっていたわけではなかった
 何もしてやれないのに何が「わかった」だ
 ダフネの声はだんだん小さくなっていく

 坂道を上がりきったところで
 ダフネはまた立ち止まり
 海の方に振り返る
 『ダフネ あそこにはボートはないんだよ』と
 僕は胸のなかで言う
 ダフネの後ろ側に月が光っていた

 家までの舗装されていない道は
 一昨日の雨でまだ泥濘んでいた
 来るときは注意して歩いたが
 帰り道ダフネは海の方ばかり気にしていたのか
 泥濘みに足を滑らせて
 ゆらりと揺れて
 いつもなら崩すことのないバランスを失って
 僕の腕を抱いていた腕を離して
 倒れこむ

 べちゃりと音がして
 ダフネは泥濘みに落ちた
 ダフネは重力に抗う素振りを見せず
 当然なのだと言うように落ちて
 月明かりに見たダフネの
 寝間着も白い素足も手までが泥だらけになった
 それでもダフネは起き上がろうとはしないで
 手で泥濘みを掻き回す
 それは「もうどうでもいいの」と言っているように見え
 僕は「ばか」と思わず言いながら
 ダフネを引き起こす

 ダフネは立ち上がりながら
 泥の手で自分の顔を
 まるで自分の顔がどこにあるのかわからないみたいに
 何度も触っては確かめる
 この子はどこかが狂い始めると止まらないなと
 僕は思う
 こんなにも壊れやすいダフネを
 僕はどうにも助けられない自分を嘆く

 けれど玄関の明かりの中で見たダフネに
 僕は笑い出す
 まるで仔狸のように鼻の頭に泥をつけ
 頬っぺたには泥のヒゲ
 ダフネを風呂場まで引っ張っていき
 大きな姿見の前に立たせた
 前に校長が言っていたことを思い出す
 ダフネはまるで鏡の中の誰かに合わせて踊っているようだと
 ダフネは鏡の前で茫然と立ったまま
 自分の顔や服の泥にも関心を示さなかった
 
 「ひどいなあ」と僕は言って笑う
 ダフネは笑わない
 僕はだんだん不安になってくる
 鏡に僕も映っているのだけれど
 その鏡の僕にも何も反応しない
 「ダフネ 泥だらけだよ」と僕が言うと
 ダフネは僕の方に振り向いて
 困ったような顔をした

 「シャワーを浴びないとベッドにも寝られないじゃないか」と
 僕が言ってもダフネはジッと立って鏡を見ていた
 鏡に映る自分は何か遠い世界の者たちであるかのように
 仕方なくダフネの寝間着を脱がそうとすると
 ダフネはされるままになっている
 「ダフネ」と僕はもう一度
 まるで気を失っている人に声を掛けるように言う

 裸のダフネが指で僕の膝辺りを指さした
 見るとダフネを引き起こした時に
 僕のズボンの膝にも泥がついていた
 「ああ僕もか
  ダフネが綺麗になったら僕もシャワー浴びるよ」
 ズボンならダフネがシャワーを浴びるとき
 ついでに泥を洗い落とせばいいと僕は考えて
 ダフネを風呂の中に押し込んだ
 ダフネの髪にも泥がついていた

 コックをひねって湯を出すと
 我にかえったようにダフネはシャワーの中に
 浴びるダフネを僕は眺める
 この花の娘を人の子にするにはどうすればいいのだろう

 僕にはどうすることもできないのかもしれないと
 悲観的な感情に負けそうになったとき
 ダフネが振り向いて
 「ボート ダフネ K ファントモ」と言いながら
 愛らしい若い胸をぐっと突き出し
 当惑している僕の右手をとって
 自分の左の乳房に押し当てた
 この間の夜のダフネの胸とは
 何か違う乳房がそこにはあった

 それが何を言いたいのか僕にはわからなかったけれど
 僕はダフネをまた海に連れていき
 一緒に泳がなければいけないのだと
 思う他はなく
 
 それから海でなくてもプールなら
 ダフネも赦してくれるかもしれないと思った
 未踏とよく行った温水プールに
 ダフネを連れていけば
 何かダフネのためにできるかもしれないと

 そう考えながら
 僕の胸には鋭い針でちくりと刺したような
 痛みがあった