クルーザーから海に飛び込んだ日以来
ダフネは少し調子がおかしい
風呂からばしゃばしゃと大きな水音がして
どうやらバスタブの中でバタ足をしている
かと思うと
芝生に寝転んで泳ぐ真似をし続ける
水遊びがしたければ
浜までいけばいいと思うのに
出かけていくわけでもない
そのうち夜になっても
ベッドの上で泳ぎつづけたりするようになり
何度も「ボート」と言いに僕のそばにやってくる
そのことをあのひとに言うと
「また頼むのはやぶさかではないのだが
彼は今アフリカかどこかに出かけてしまったようだ」と言う
バレでも床に寝て泳ぐ真似をするらしく
校長も少し呆れ顔をして
「そういうこともあってもいいのだとは思うのだけれど」と
よほど泳いだ感覚が忘れられないらしい
というより泳いだことがダフネに何かを思い出させたのだろう
夜中になってもなかなか寝つけないらしく
ベッドで泳いでいたかと思うと
立ち上がって僕のところにきては
僕の隣に寝てみたり
かと思うと窓を開け放して
ずっと外を見ていたりする
強いノスタルジアがダフネを虜にしてしまっているのだと
僕は思う
少しは寝ているのだろうか
今朝などは目の下に疲れたような隈ができていた
昼間は相変わらずバレの学校でずっと踊っているのなら
きっと疲れてよく眠れるはずだと思うのに
その熱気が冷めやらぬまま
夜になったとでも言いたげに
紅潮した顔で走り回っている
口をついて出てくる言葉も「ボート」だけ
だんだんと五月は夏に近づいてきて
陽射しが強くなったのか
庭の芝生も雨を欲しがっているような気がする
思い立って
庭に水を撒こうとホースを物置から出してきて
庭木の根元や芝一面に水を撒く
それに気づいたダフネが家から飛び出してきて
霧状の水の中で踊り始める
顔を上げて
降ってくる水を飲むかのようにするときもある
ダフネには水が必要なのか
花の国のダフネは花の娘
いつも潤いをもたらす水が恋人
そうかもしれないと僕は思う
僕も小さなとき
庭に水を撒く祖父を困らせたものだった
服がずぶずぶになるのもおかまいなし
とても快かった
宙に舞う水滴が五月の光の中で
小さな虹をいくつもいくつも作る
ダフネの髪も濡れて
蒼い空を背景に光る小さな虹の冠をかぶる
でもいつまでもそんなことをしていたら
風邪をひくだろうと思って水を止めると
ダフネはすごくがっかりした表情になって
立ち尽くす
降る雨がなければ踊れないとでも言うように
僕の方を悲しげな目でじっと見る
諦めて部屋に戻っても
服も着替えずにびしょびしょのまま
僕にくっついてきたりするので
僕の服も水だらけになる
そういう光景をあのひとは驚くでもなく
かといって笑いもせずに
静かに眺めている
あのひとにとってはこれすらが
ケ・セラ・セラなのにちがいない
でも眠ることもなく
海に焦がれるダフネを見るのは辛かった
おかげで僕もまた少し不眠症になる
僕はだいたい
あまり昼夜リズムがはっきりしたほうではない
本を読んだり
仕事でもキリがつかないときは平気で徹夜する
でもこんな形で眠れないのは
昨夜はとうとう眠れないダフネを連れて
夜の浜を散歩でもしようと
夜中の一時すぎに家を出た
半月が空に
風は強かったが快い風だった
ダフネは自分から駆け出してはいかない
僕の後ろからついてくる
下る小径の背の高い草が風に揺れて
僕たちの道を妨げる
海は暗く
波までが悩ましげに打ち寄せる
僕はダフネの肩を抱き
「夏になったらうんと泳ぎに行こう」と言う
ダフネはそれに応えずに
ぼんやりと海を見る
なんと多くのことを人は諦めて暮らしているのだろうと
そんなダフネを見ていて思う
諦めたことすら
すぐに忘れてしまう毎日
でもダフネには
諦められないにちがいない
「せめてファントムシッポでもあったなら」と
僕が言うと
ダフネは大きな円い瞳を光らせて僕を見上げ
「K ファントモ ダフネ ファントモ ファントモ」と言い
僕の胸に顔を埋めて泣き出した
僕はダフネを強く抱きしめる
船をダフネに用意できるなら
それは僕のダフネへの愛の形
けれども僕には船はなかった
五月の半月の夜
ダフネをしっかりと抱きしめる
悲しい泳ぎのダンスを止めるために
僕のできることはそれだけなのだ