海の子のダフネ | 不完全な切り紙細工

不完全な切り紙細工

 誰も聴く人がいないのに歌いつづける歌がある
誰も見る人がいないのに踊りつづける踊り手がいる
誰も読む人がいないのに書きつづけられる言葉があって
不完全な切り紙細工を幾つも幾つもつなげていけば
そこに何かの絵が生まれるものと願う鋏がここにある


 大丈夫なのだろうかと僕は思い始める
 このまま嵐がひどくなれば
 この船では万全とは言えなくなるのではないかと
 けれども僕以外の三人は
 少しずつ違うやり方ではあったが
 船の進行を楽しんでいるようだった

 僕もそう思いながら頭のどこかでは
 別のことをぼんやりと考えていた
 目利きの話ではないが
 言葉が通じたと思えるのはどういうときなのだろうと
 考え方や感じ方
 生きて来た歴史も年齢も皆異なる四人が船上にいて
 嵐のような天候の中を沖を目指す
 あのひとが口だけで言った「目利き」を僕は読み取って
 そうなのだなと理解した
 それでも僕は頷きもせず「なるほど」とも言わなかった
 けれどあのひとは自分の言葉が読み取られ
 僕が了解したのを確かめるでもなく微笑んで
 キャビンの椅子にどんと座り込む
 船主もダフネもそのやりとりには気づいていない
 同じことを僕がダフネにしてみせたら
 ダフネは理解するだろうか
 理解したとしてもそれをダフネは表現しない
 僕が何もあのひとに言わなかったのと同じように
 それでもあのひとは「通じた」と知り
 同じように僕はダフネに「通じた」と
 どうやったら知ることができるのだろうと

 また稲妻が走る
 今度は黄色く見えた
 ダフネが奇声を上げる
 海猫が低空飛行して船のすぐそば
 ダフネの目の前を勢いよく飛んでいったからだった
 また僕は考える
 どうして僕はダフネが雷に怯えたのではなく
 海鳥に歓声をあげたのだと分かったのだろうかと
 僕にはダフネの声は聞こえたが
 窓から首を出しているダフネの表情は見えなかったのに

 その稲妻の後の雷鳴が最後になった
 風が急に凪ぎ雨が吹き消されたように止んで
 空がどんどん明るくなっていく
 まるで夏の夕立の後のような勢いで
 太陽が顔を出し
 急に空気が温かく感じられるようになる
 船は思い荷を下ろしたみたいに
 タンタンタンと軽快な音を立て始めた
 海の色も明るくなっていく

 「ほれほれ こんなもんですよ」とまた船主が笑って言う
 デッキの雨が明るい日射しに煌めき出し
 日本の海を進んでいるのではないような気分がしてきた
 「日本の天候も年々変わって行くね」とあのひとが言う
 そうかもしれない
 この日射し
 あの大雨と雷雲が速やかに 蒼空に変わったスピード
 地球も変わっていくのだろうかと僕は思う
 船が減速し岬を遠目に見るコースに入る
 小さな灯台が真っ白に浮き上がって見える

 さほど大型でない船でもデッキは
 この天気ならパラソルの一本も立てて
 釣りをするくらいの広さがある
 外に出てもよさそうだなと思った僕を
 ダフネが先をこして飛び出した
 「おっこちなさんなよ お嬢さん
  水はまだ冷たい」と船主が笑う
 ほとんど波も静まって船は緩やかに航行する

 さっきとは打って変わった爽快な風が
 服の中にまで入り込んでくる
 僕の大好きな風の感覚
 ダフネも同じように風を感じるのだろう
 穏やかな表情をして
 髪を風にあずけて立っている
 腕をさかんに振っているのを見て
 船主が言った
 「ほおれ やっぱり踊る人じゃないですか」
 仕草の一つ一つを見る目が
 きっと彫り出された像の動きを見取るのだろう

 船が岬を大きく回り込むと
 断崖に白い点がたくさん見えて来た
 海鳥の群れなのだろう
 日射しがさらに強まって暑いほどになる
 「気分転換」とあのひとが言ったのは大正解だと思った
 海の上は地上とは違う広さがあった
 遮るもののない空間


 でもその多幸感の中で予想もしないことが起きたのだ

 ダフネがひょいとデッキの手すりを乗り越えて
 止める間もなく
 そのまま海に飛び込んだ
 ダフネを見ていた三人はその瞬間に何が起きたのか
 ほとんど理解できない
 まだ冷たい海に飛び込むなどとは
 誰が考えるだろう

 「ダフネ」と僕は声にならない掠れ声で叫び
 デッキから水面を覗き込む
 ダフネの姿は見えない
 黒々と海がうねる
 船は急停止したが落ちた場所がどこなのか
 すぐにはわからなかった
 どの方向へ飛び込めばダフネのそばに行けるのか全くわからなかったが
 僕は手すりにつかまって
 足で水を蹴り上げるようにして浴び
 その間もまだダフネを探していた
 でもダフネはまだ見えなかったので
 僕もそのまま水に背中から落ちるように飛び込んだ
 息が止まるほど水が冷たく
 意識が遠のく
 頭のどこかで竜宮の遣いが波間に浮き上がる

 だめかと思った瞬間に
 20メートルほども向こうの水面から
 ダフネが飛び出して来たのが見えた
 まるでイルカか飛び魚のように
 両腕をまっすぐに伸ばし
 バッシャンと音を立てて

 なんていうやつだ
 そこから見事なクロールでぐんぐんとこちらに近づいてくる
 近くまで来ると顔をぐいとあげて平泳ぎになり
 僕の方を見ている顔が笑っていた
 それから急に頭から水面下に飛び込むように跳ねる
 膝までのぴったりしたジーンズの尻がぷかりと浮かんで見え
 次の瞬間
 ダフネの顔が僕の目の前に飛び出して来て
 興奮したような笑い声
 ダフネが浮き上がった勢いで水面が膨らんで
 僕の顔にぶち当たった


 「やれやれ こりゃあ前代未聞
  たいした というか すごい女の子だね まったく」と船主が感嘆する
 「どうなることかと思った」といつも物事に動じないあのひとまでが
 息を切らしたように言った
 船主がキャビンから毛布を出して来て
 くっついて震えているダフネと僕をぐるぐる巻きにする
 水からあがるとさすがに身体が冷えきっているのか
 ダフネも震え始めて歯の根が合わない
 僕は僕でまだ息が普通にはできずにいる
 そのときになって
 「中の方が暖かいから」と船主がキャビンを指して言った

 僕は少しだけ落ち着くと
 抱きしめているダフネの耳もとで
 大声で「バカヤロー」と言いかけて
 震えながら笑って僕を見ているダフネに負けて
 言葉を呑み込む

 なんという笑顔なのだろう
 まかり間違えば死ぬおそれさえある行為の後で

 こんなにも明るく笑うダフネを
 僕は今まで一度として見たことがなかった