雷鳴 | 不完全な切り紙細工

不完全な切り紙細工

 誰も聴く人がいないのに歌いつづける歌がある
誰も見る人がいないのに踊りつづける踊り手がいる
誰も読む人がいないのに書きつづけられる言葉があって
不完全な切り紙細工を幾つも幾つもつなげていけば
そこに何かの絵が生まれるものと願う鋏がここにある


 「ちょっと面白い人物だよ」とあのひとが言う
 美術商なのだというので高い絵画とかを扱うのかと思ったら
 小さな木彫りの
 しかもほとんど素人に近い人たちが彫った木彫りの人形や仏像を
 売りさばいているのだそうだ
 「それでクルーザーが買えるんですか」と僕はあのひとに聞く
 相当に価格を上乗せするのだろうか
 しかし高くなれば素人作品が売れるとは思えなかった
 「いや彼のマージンは少ないようで
  彫ったものを彼に託して売ってもらった連中は
  彼に感謝しているらしい」
 「とそのひとが言うんですか」と疑い深い僕
 「いや彼じゃない
  例えばほらコム・ゴギャンの亭主の親戚も制作者の一人で
  べた褒めだと亭主が言っていた」
 「しかしそれじゃなぜ儲かるんですかね」
 「会えばわかる」とあのひとが言う
 「目利きということなのだろうさ
  作品だけではなく買い手についてもね」

 何かの作品が素晴らしいと言われて値が付くのは
 その作品に何かを感じとる人がいるからだ
 しかし作る方では自分の意図を
 あるいはモチーフを理解してくれる人に買って欲しいだろう
 それはどこか言葉と似ていて
 話す者の何かが聞く者に伝わらなければ言葉ではない
 もちろん独り言のような言葉もあるが
 独り言なら言葉が何かを人に伝える必要は無いが
 その独り言のように発せられた言葉の意味や意図
 優れた点を見つけ出す
 あるいはその言葉を好んで聴く人を見つけ出す
 そういう仕事を彫刻でやっているようなものなのだろう
 ならば確かに目利きでなくてはならない
 売り手と買い手を選び出し商売を成り立たせるには

 歳はおそらくあのひとよりも一回り以上若いように見えた
 ちょうど生きていれば僕のオヤジくらいの歳だろう
 小柄で痩せていて僕が想像した美術商とはかけ離れていた
 どちらかというとその辺で網を繕っている漁師みたいな人だった
 「これはこれは
  クリスタル・マーメイドにようこそ」
 と僕らに気さくそうに笑って挨拶する
 いつも海に出るのだろう
 肌は漁師のように焼けていた

 クリスタル・マーメイドとはずいぶんな名前の船だなと思う
 「変な名前だとお思いですか」と僕の表情でも読んだのか
 「以前は水晶とかも扱っていましてな
  それとこの辺りの竜宮伝説から名付けました」と
 何がおかしいのか笑い声をあげる
 「そのマーメイド号に今日は人魚姫のお客
  うーん南欧の香りがしますなあ
  でこちらが先生のお孫さんですな」
 「いえ孫じゃあ」と言いかける僕をまた笑って遮って
 「いやいやお孫さんでないことは百も承知
  ねぇ先生
  お孫さんみたいに思っておいでの人だと勝手に言っているだけですよ」
 なぜダフネを南欧と考えたのか
 あのひとがそんなことまで話したとは思えなかった
 「その歩き方
  お嬢さんはバレでもやっておいでかな」とダフネにも笑いかける
 あのひとがちらりと僕の方を見て笑う
 「目利き」と声を出さずに口だけで言う

 ダフネは明らかに好奇心をそそられているようだった
 船主にではなくクリスタル・マーメイドに
 乗り移ってからキャビンや長いアンテナを見て回る
 ほとんどはしゃいでいると言ってもよかった

 「ではでは」と陽気な船主が出航を告げる
 エンジン音と水を蹴立てる音がゴーッと鳴り
 船が走り始める
 風が時折強く吹く
 空は少し曇ってきているようだった
 「いかん 降ってくるかな」とあのひとが言ったとき
 大粒の雨がざーっと落ちてきた
 「そう長くは続かんでしょう」と船主が言う
 それからまださほど暗くない雲間に
 どーんと雷鳴
 春の気候はほんとうに予測しにくい

 ダフネが怖がるのではないかと
 怖がったりすればダフネの行動は予測できなくなる
 そう思って見ると
 ダフネは雷鳴の聞こえた空を見上げていた
 怖がっているようには見えなかった
 小首をかしげて
 何か不思議なものを見るような顔つきだ
 空が一段と暗くなり
 厚い雨雲の中を稲妻が走り
 しばらくしてまたどどーんと鳴る

 驚いたことにダフネはそれを嬉しそうに見ていた
 また稲妻が走る
 「おお このお嬢さんは勇敢ですな」と船主がまた笑う

 雷雲は行く手の海を覆うように広がってくる
 暗転した空間に青白い稲妻が
 見事な形を作って空気を裂く
 雨脚が強まって甲板に大きな音を立てる

 春の嵐というよりはもう夏の夕立の海のようだった
 「マーメイドに嵐はつきもの
  しっかりつかまっていてくださいよ
  でないと頭がこぶだらけになる」
 波も揺れ始めた

 ダフネは小窓から首を出し
 雨に濡れるのもかまわずに波と稲妻を交互に見ている
 そうか
 君も海が好きなのだね
 ダフネ
 しかも嵐の海が

 沖のほうがぼーっと光り出し
 船主は冒険好きの子どものような目をして
 一気に速度を上げた

 風がぶーっと音を立てて吹く
 いや風が吹いてくるのか
 それとも船が速度を上げたせいで空気を切り裂いて進むためなのか
 それを風と呼んでいいものかどうか僕にはわからない

 もうずぶ濡れのはずのダフネの髪が
 宙に浮いて風下のほうへとなびいている
 そして
 目をキラキラと光らせ
 何かに陶然となった表情のダフネが
 そこにいた