僕が自分の感情をコントロールできるかという
あのひとの質問を考えていた
僕はどちらかというと
感情のままに生きてきたと自分では思っていた
だから僕が感情を抑えているのかという問いかけは
奇妙な問いかけのようであり
そのくせ僕を揺さぶりもした
「僕は感情をコントロールしようとなんて思いませんよ
感情のままに生きてきたと言ってもいいくらいですから」
そう言うとあのひとはいつもの
少しシニカルなそれでいて愛情深げな笑いを浮かべて
「では君はダフネを愛したいとは思わないのかね」と言う
このひとのこの表情は
きっとこのひとの職業が作り上げたものなのだと思う
皮肉な笑いは相手より自分が明らかに上位に立っていて
ときには相手を圧倒できることを示していたし
それでいてこの上なく優しく笑うのは
決して相手を害することはないと言っていた
そうやって相手はこのひとの魔術に引き込まれてしまうのだ
「いえ
たぶん僕はもうダフネを愛しているのだと思います
でもそれは恋愛感情という意味じゃない
恋の感情は相手が好きであると同時に
ほんの少しだけれど憎しみみたいなものが混じっている
何と言うか
相手を欲するという感情は
相手を自分だけのものにしたいという
相手の自由を奪おうとする
憎しみのかけらみたいなものがあると思うんですよ
でも僕はダフネには憎しみのかけらも感じない
だからこれは恋とかいう種類の感情じゃないと」
「ほお それが君の愛の哲学かね
君が君のこれまでの人生で見聞きし経験したことから
君が学んだ」
「学んだというか昔っからそうだった気がしますけどね
ダフネもきっと似たような気持ちを持っているのかもしれません」と僕
「ダフネは君にはその何だ『憎しみのかけら』を持たないのだと
君は確信できるのかね」とあのひとが言う
『そりゃそうですよ』と言いかけて僕は言葉を呑み込む
ダフネ2のことを思い出したからだ
あれがダフネの分身ならば
ダフネは僕に『憎しみのかけら』を抱いているのかもしれなかった
でも逆にダフネ2はダフネの姿をした僕だったのかもしれないと
僕は考え直してみる
でも辻褄が合わないことが多かった
ダフネ2は僕がダフネと言葉を通じ合うことを嫌う
そのくせ僕が恋愛感情を抱けば
それを引き受けるとも言った
そしてダフネ2は僕を崖から突き落とし
僕に刃を突きつける
もしダフネ2がダフネのではなく僕の中の何かの分身であるのなら
僕は僕自身かあるいはダフネにも
その『憎しみのかけら』を抱いていることになり
それはとりもなおさず僕がダフネを
この一ヶ月余りのあいだに
ダフネはまた背が伸びて大きくなったような気がする
まだ僕よりは20センチは小さかったが
育ち盛りのダフネが僕に追いつく日がくるだろう
僕はそんな日がくることを
望んではいない気がする
Mをここに呼びたいと思ったのは
ダフネとM
それぞれに対して僕が抱いている感情を
どこがどのように違っているのかを
確かめたいと思ったせいかもしれない
それぞれに
僕には何と言ったらいいか
責任みたいなものを感じる
それをはっきりさせたくなっていた
はっきりさせたいと思うのは
きっと自分が言葉で言うほど
事態は明瞭ではないのだと感じ始めていたからなのかもしれない
人は生きて死ぬまでの間に
数多くの人を愛するだろう
その一人一人
ひとつひとつの愛情は皆同じであるはずもない
その一人一人と僕のつながりが様々であるように
僕の愛情も皆違う色をしているはずで
そう考えるとこの問いには
明瞭な答えなどありはしないのかもしれなかった
「今日も風が少し強いが
良い気分転換になるかもしれないから
ダフネを海に連れて行こうか」
とあのひとが珍しく外出しようと言う
「海にはよく行っていますよ」と僕が答えると
「いや浜ではない
船を出してもらって岬を海から眺めようと言うのだ」
とあのひとは言う
船
そうか海の上へ
「船って?」と思わず僕は身を乗り出して聞く
「クルーザーを持っている友人に頼んでみよう
彼は客を乗せたくてうずうずしているはずだ」
床に座って
色鉛筆の虹を並べていた寝間着姿のダフネが
『クルーザー』という音に反応して
顔を上げた
「ダフネ ボートだそうだよ」と僕が言うと
ダフネは飛び上がって二階へ走り出した
人目を気にしないはずのこの子犬は
出かけるときには着替えるのだと
よく知っているらしい
「よし ダフネもオーケーだ
電話してみよう」とあのひとが立ち上がる
船
海の上へ
僕は大きく息を吸い込んだ
「決まりだ
一時間後には海の上だ」と受話器を置きながら
あのひとが言ったのと
ダフネが上半身裸のまま手にTシャツを持って
駆け下りて来たのがほぼ同時だった
慌ててシャツに首を通しながら
ダフネがはっきりとわかる笑顔で
「ファントモ K ダフネ」と言った