ダフネの羞恥心 | 不完全な切り紙細工

不完全な切り紙細工

 誰も聴く人がいないのに歌いつづける歌がある
誰も見る人がいないのに踊りつづける踊り手がいる
誰も読む人がいないのに書きつづけられる言葉があって
不完全な切り紙細工を幾つも幾つもつなげていけば
そこに何かの絵が生まれるものと願う鋏がここにある


 「君はどう思ってるね?」とあのひとが聞く
 「ダフネには羞恥心というものが欠落しているのか
  それともそんなものは人間社会の作った
  意味の無いもの
  他の生き物には全くないものであって
  ダフネはそんな人工物の感情を
  持つことのない特殊な存在なのだと」

 ダフネが裸で歩き回ったり
 時には着ていた服を脱いで裸になってしまう理由を
 僕たちは理解できずにいた
 オーティズムの子
 いや成人したオーティズムの人たちも
 服を脱ぎたがる傾向があると言う人がある

 それは
 うまく届かない現実に
 身体をかけて触れたいという必死な感情の現れなのか
 あるいはそんな目的などはなく
 ただ 感覚の望むのが
 人間の作った服を脱ぎ捨てることなのか
 ダフネに
 「なんで裸でいるの」と尋ねてみても
 理解できるような答えは返ってこないだろう

 人間が裸でいるのを止めたのは社会ができただけでなく
 その社会で身体と身体が直接ふれあうことの意味を
 限定的なものにしたからかもしれない
 裸で誰かといることは価値になったのだ
 裸の姿を見
 触れることを許されるのはそのひとと
 特別な関係にある者のみに許されることだという価値観

 あるいは一人の人間の身体の所有権を
 服で隔てている限りは主張しないという約束事でも
 できたせいだったのか
 その理屈で言うのなら
 ダフネは裸のまま僕のベッドに潜り込んでくるのだから
 ダフネは僕の「もの」なのだということになる
 でもそれほど実感のない感情は他にない

 「僕はバレの校長先生の言葉が正しいと思えるんですよ
  ダフネは人から『見られている』という感覚がないと
  校長先生が言っていました
  それは僕にはほとんど実感ですね」と僕は言う
 それならば裸でいることは何の意味も無く
 ただ自然な姿だということになる
 アメリカの女の子たちは裸にあまり頓着しない
 日本人とはまったく違う感覚の生き物だ

 人に見られているという感覚
 それはときには自意識とも呼ばれるかもしれない
 人が自分を見て
 どう思うかを気にする
 それこそ社会的動物の意識のあり方だと僕は思う
 ダフネはそういう意味では
 「社会的」に生きてはいないのだ

 「しかしね
  君は最近のダフネとここに来たばかりのダフネとで
  何かが変わって来たとは思わないかね
  いや私などより変化に気づいているはずだ
  ダフネが君に見られていると
  感じるようになることはダフネがフツウの子になる
  きっかけになるのではないだろうか
  君に見られて恥じらう
  あるいは
  その恥ずかしさを前提にして敢えて
  君の前で裸になるとしたら」

 それは僕が最近ときどき考える問題だった
 考えて結論にはけっきょく到達できない問題でもあった
 僕は男なので
 僕が裸になることが人に感情的な影響を与えるとは思えない
 まあアメリカンの女の子たちは
 男のストリップで興奮するそうだけど
 僕には全然理解できないことだと思う
 NYにいたとき僕のGFの中には僕の裸を見たがるのがいたが
 僕にはとても奇妙な体験だった
 男の裸なんて価値はない
 つまり人との親密な関係を指し示すものにはなりっこないと

 僕は別に男娼でもストリッパーでもないので
 僕の裸が見たいという女の子がいたら
 嫌だと拒むことはしないだろう
 ダフネもある意味それと同じなのかもしれない
 それゆえダフネが裸で歩きまわり
 ときには踊るときも
 僕にある感覚は美しい彫像を見るようなものだった
 あるいは皆が裸になるのが普通の
 大衆浴場のように

 でももし
 ダフネが何らかの意図をもって裸になるのなら
 それはちょっと考え直すべきことになる
 そんな気配は全くないと僕は思う
 ダフネが僕の傍にいたいということは
 多分ほんとうだろう
 でもそれは実をつけるための男と女にとっての
 傍にいたいという感覚とは全く違っているだろう

 「それと明確に分からない感情が
  人間の中に育ち膨れ上がってくることは
  日常茶飯事だよ
  政治はそういう形になっていない感情を
  くみ上げて形にする仕事だとも言える
  君のダフネとの関係も
  君かダフネかはわからないけれど
  形にしようとしてどうしていいのかわからない
  似たようなプロセスなのかもしれない」
 
 それは確かに僕たちの
 ダフネと僕のプロセスをとらえていたのかもしれない

 どの道
 人には自分の今を理解する力などありはしない
 ましてやそれが
 人間社会の出来事というよりは
 むしろ獣と獣の優しい関係であるならば
 それは人間社会の言葉を超えている
 いや超えているというより
 人間社会の言葉の根底過ぎて
 普通の生活をしている我々には言葉ではわからない

 バーボンが回ってきたのか
 僕は少しクラクラとする
 
 「君はダフネが裸で君にくっついてきても
  まるで聖人のように君自身の身体をコントロールして
  欲望は感じないのかね」とあのひとが聞く
 それは僕も僕自身に聞きたい質問だった
 でもそれをあのひとが聞くのは少し意地悪だった

 ダフネが風呂から上がり
 ローブを着てリビングに入ってきた
 最近ときどきダフネは僕を困らせる
 裸の上にただバス・ローブを着ただけで
 椅子に座った僕の膝の上に
 よじ上ってきたりするからだ
 無心のダフネにはただ柔らかな親しげな椅子の僕
 でもその椅子の僕は違うことを感じ考える

 「K」と僕の方を見上げてから
 ダフネは目をそらして外の春の夜を見た
 ダフネにかすかな戸惑いがあるような気がした
 「K」とまたダフネが言って
 でも僕の膝によじ登らずに僕のそばに立っていた
 
 ダフネ
 君を引き受けたのは間違いだったのかもしれない
 僕は君を僕の仲間
 あるいは妹のような親しい者として
 あるいはもしかすると
 僕に似た者として
 傍に居てほしかった
 けれどダフネ
 君が妹でないことはどうしようもない事実

 君にも僕にも
 別の感情と欲望が生まれてきたら
 どうすればいいのだろう

 その問いかけに
 同じように問いかけてくるように
 ダフネが座っている僕の横から僕に寄りかかる

 ダフネの膨らんでくる胸の感触が
 バス・ローブを超えて
 僕の腕に伝わる

 ひとはどこまで言葉なき動物で
 どこから言葉で伝え合おうとする人間なのだろう
 そして男と女
 そのつながりは人のもの
 それとも言葉なき獣の

 僕はローブの中から見える
 ダフネの胸に触りたくなり
 あのひとが同じ部屋にいるのを気にもせず
 手を伸ばしてダフネに触れる
 ダフネの柔らかい小さな胸が
 少し揺れながら遠ざかったり近づいたりしたような気がした