色の意味 | 不完全な切り紙細工

不完全な切り紙細工

 誰も聴く人がいないのに歌いつづける歌がある
誰も見る人がいないのに踊りつづける踊り手がいる
誰も読む人がいないのに書きつづけられる言葉があって
不完全な切り紙細工を幾つも幾つもつなげていけば
そこに何かの絵が生まれるものと願う鋏がここにある


 ダフネが「シュミレ」と言った
 僕が夢の中で崖から落ちる
 その前に
 庭に咲いた菫の花を
 「菫」と呼んだのを聞き

 それが僕だけの夢の中の出来事であったなら
 ダフネが異なった悪夢にうなされただけだったなら
 夢を見た後で
 ダフネが「シュミレ」と言うはずはない

 ダフネの夢を僕が見たのか
 僕の夢をダフネが見たのか
 夢の中身は少し違っていたかもしれない

 けれど
 夢の途中で
 ダフネが見て触れてみた菫の花の
 その名前
 ダフネの知らなかった花の名前の
 「すみれ」をダフネが口にした

 それは
 僕が夢の中で
 ダフネの夢の中でダフネに教えた名前だったから
 どこかで僕たちの夢はつながっていた
 それがどんなに恐ろしい夢であったとしても

 僕の言葉がダフネに届き
 ダフネがそれを返してきたことは
 もう疑い得ないことになる


 翌朝
 まだ春風の強さが消えきらない時間
 僕はダフネを揺り動かして目覚めさせ
 パジャマの温もりが冷めないうちに
 庭までダフネを引っぱっていく

 菫の花のそばまでくれば
 ダフネは何と言うだろう
 もう一度
 夢から覚めた朝の光のなかで
 もう一度
 「シュミレ」と言ってくれるだろうか

 菫の花を指差して
 それから少し触れながら
 「ダフネ?」と僕は聞いてみる
 ダフネは嬉しそうな顔をして
 「ダフネ?」と言った

 だめなのかと僕は息を呑む
 僕はダフネの紫の額に手を当てて
 「ほら ダフネの額のこの色と同じ色」と言ってから
 僕には見えるダフネの紫の額が
 ダフネには見えていないことに気がついた

 今度はダフネの肩を抱き
 家に戻って姿見の大きな鏡の前に来て
 ダフネを映し
 ダフネのやわらかな髪を持ち上げて
 額に指で触って見せる
 「ほら ダフネ 君の額のこの色と」
 ダフネは僕の手を見ると
 それを両手で包んで自分の胸に押し当てて
 「ダフネ」と言い
 僕がついた溜め息を不思議そうに見る
 
 通じたと思った僕たちの
 夢の続きが消えていく
 やっぱり君には僕の言葉は通じない

 僕は夢でそれを教えたことさえ忘れそうになり
 いつもどおりの同語反復の
 悲しい儀式を思い出す

 少し甘えるようにダフネが僕の腕の中に
 寄りかかるのを
 僕は言葉もなくただ抱きしめる

 こうやって近づいては遠ざかり
 時が進んでまた戻り
 僕たちはいつまでも
 この奇妙な抱擁を繰り返すのだ
 通じ合わないままの抱擁を

 抱きしめた力が強すぎたのか
 ダフネは大きく息を吸い込んで
 僕の腕から逃げていき

 まだ床の上にあったケースを手にとって開け
 その一本を手にとって
 僕を嬉しそうに見上げると
 「シュミレ」とまた言った

 僕の心臓は一度苦しく立ち止まり
 ダフネを抱きしめなおして
 今度はもの凄い早さのステップで動き出す

 「ああ ダフネ そうだとも
  その色鉛筆の その色が
  君の額と同じ 菫色」

 ダフネは僕の腕の中から
 何度も何度も色鉛筆を振って見せ
 ほとんど叫びに似た高い声で
 「シュミレ しゅみれ すみれ」と
 歌うように言って踊りだす

 ダフネが僕から
 色の意味を聞いた朝