ダフネの仮身 | 不完全な切り紙細工

不完全な切り紙細工

 誰も聴く人がいないのに歌いつづける歌がある
誰も見る人がいないのに踊りつづける踊り手がいる
誰も読む人がいないのに書きつづけられる言葉があって
不完全な切り紙細工を幾つも幾つもつなげていけば
そこに何かの絵が生まれるものと願う鋏がここにある


 人生の予想もできない出来事でも
 起きてしまえばそれだけの根拠も理由もあるような気がする
 それを快く認めるかどうかは別として
 
 ダフネが香りを残して更衣室に消えたとき
 校長が僕に明日も同じようにするのかと聞く
 「まだはっきりしないですが多分」と僕
 「必要なら夕御飯をここで食べることもできます
  そういう子もいますからね
  これから夕御飯の時間
  とにかくこれからも頑張ってください」
 校長と別れてから練習場をちょっと覗くと
 もう誰もいなかった
 がらんとした空間が目の前に広がっている
 人がいなくなると練習場の照明がまぶしかった

 そのときまだ誰か残っている人影が鏡に映って見えた
 鏡の中の人影は敷居か何かを飛び越えるように跳ね
 鏡の方からこちらにすたすたと歩いてくる
 ダフネだった
 更衣室の方から練習場に入る通路がもう一本どこかにあるのだろう
 ダフネはまだ練習着のままで
 首にタオルをかけていた
 疲れたのか歩みが少しのろい
 僕のところまでくるとダフネは僕の前に立ち止まって
 「ずいぶん待った?」と聞いた

 僕は目がくらくらするような錯覚に落ちる
 ダフネがきちんとした日本語で話すのを聞くのは初めてだった
 「ごめんなさい 夢中になってたの」と
 少しはにかんだように微かに笑って言った
 「ダフネ 言葉が」と言って僕は二の句を失う
 「何?」とダフネは聞きながら手を伸ばして
 僕の手を握る
 春の夕べの温もりのなかでダフネの指は少し冷たい
 それからダフネはさらに僕に近づいて
 鼻を僕の胸に押し当てて言う
 「いい匂い 木の匂いがする」と
 「よかった 迎えにきてくれないんじゃないかと思った
  あなたがいなかったら私はここに戻れなかった
  あなたのおかげ ほんとうにありがとう」
 たぶん僕は夢を見ているのだろう
 それを確かめるために僕はダフネを抱きしめようとする

 でもダフネは消えてなくなりはしなかった
 上気した体温は既に冷めていたが
 ダフネのすらりとした身体は確かに僕の腕の中にあった
 「いつからそんなに話せるようになったの」と僕が聞くと
 ダフネはさも奇妙なことを聞くのねという顔で僕を見上げて
 「いつからって どういうこと?」と言う
 「ずっと前からよ あなたが教えてくれた
  さあ帰りましょう 夕御飯はどこで?」
 そう聞かれて僕は戸惑わずに「あのひとの家で」と答える
 「そう」とダフネは静かにうなづいて
 背中に回していた僕の腕の中でくるりとターンして
 そのまま腕をやさしく解いてから
 僕の横に並んで歩き始める
 僕も歩き出す
 二三歩歩いたところで僕は前を向いたまま
 「ダフネ 君だよね?」と聞く
 この奇跡をどう考えればいいのかわからなかったから
 ダフネはこともなげに
 「ううん ダフネ2よ」と言う

 意味を理解しかねて僕は「何だって?」と聞いた
 ダフネ2?
 ダフネは歩きつづけて更衣室のドアを開け
 「ちょっと待ってて」と言ってドアの向こうに消え
 入れ替わるようにワンピースを着たダフネが出てくる
 僕の方をちらっと見て
 何も言わずに出口の方へ歩いていった
 立ち止まった僕をそこに残したまま
 
 その後ろ姿とさっきのダフネの間に開いた距離に
 僕は圧倒される
 すでに締められたシャッターに付いた夜間だけの小さなドアの敷居を
 ダフネがぴょんと跳び越えて外に出るのが見えた

 夜の空気は少し湿っていた
 小雨でも降ったのか通りの舗道が濡れて光っている
 車に乗り込むと
 ダフネの少し熱っぽい手がまた僕の腕をつかむ
 ハンドルを握ろうとする腕を
 両手で自分の胸に引き寄せ
 右手で左肩を
 左手で右肩をつかむようにクロスさせて
 僕の左手を抱きしめる
 ダフネの胸の感触がやわらかい

 離そうとしないダフネに負けて
 僕はハンドルを握っていた右手を離して
 座席に体重をあずけたまま目を閉じる
 
 もはやこの迷宮に抗う気力を失って
 このままいつまでもここにいればいいと
 僕は思う
 春の夜風が開けたままの窓から入りこんで
 ダフネと僕のあいだで
 深い安心感のようなものになる