気がつくと10時を過ぎていた
ダフネは僕の腕を抱いたまま眠っていた
久しぶりだったので疲れたのだろう
僕はそっと腕をダフネの組み合わせられた腕から抜きとって
車を走らせた
小雨はもう止んで斜め右上の空に月が見えた
家の方向に曲がる三叉路で
大きなトラックが故障なのかランプを点滅させて
家の方に延びた道を塞いでいた
こういうときクラクションを鳴らすのが僕は嫌いだった
しばらく待ったが動き出す気配がない
窓から首を出したとき僕ぐらいの年齢の男が
車の横に現れて「すみません ヒートしちゃったみたいで」と言い
連絡はしてあるが3~40分はかかると告げた
迂回していく道はあったがかなりの遠回りになる
僕はバックしてコム・ゴギャンの方向にハンドルを切る
満開を過ぎた花が雨や風で早い終わりを迎える前に
もう一度見ておきたかった
僕が桜に感傷的な気分になるとしたら
それは花のあわれというよりは
小さいとき祖父母と住んでいた家の庭の桜を思い出すからだろう
祖母が梅や桜を好んで多くの花木をとくに桜を植えさせた庭だった
一頃は週刊誌か何かに見開きの写真で紹介されたこともある
近隣では一番の立派な桜の園だった
祖父が死んでから祖母は友人たちを呼んだりして静かに暮らしたが
そのせいか時折
近くの公園と勘違いして庭に入り込み
桜の下で筵を広げる人たちを拒みもせず
この季節にはよく見知らぬ客と談笑していたものだ
けれどその庭の桜は祖母の死後しばらくは主のないまま咲き誇ったが
やがて土地が細分されて売却されると
二本三本と減りやがてみな消えた
僕の中に妙に宗教的な無常観みたいなものがあるとしたら
それはその庭の喪失感がずっと尾を引いているからかもしれない
土地も組織も人の集いも
命がそうであるようにさまざまな要素が組み合わさって成り立ち
その要素が散って瓦解して消える
いや 消えるというのは正しくはない
また別の形に再組織化されるのだ
コム・ゴギャンは既に店じまいしていて
入り口の洒落た灯りだけが点いていたが
並木の方にももう人の気配はなかった
店から少し離れたところに公営の駐車場があり
すぐ目の前が
並木ではなく庭園風に植えられた桜の小公園になっていた
僕は車をそこに停めたが
他に車は一台もない
時間と満開を過ぎたということとそれから雨
そういうことが合わさって花の終わりを人々に告げたのだろう
暗い土は散った花びらで覆われていた
無数の花びらの桜色の斑点が巧まぬ模様を編んで
光の届かない遠くまでずっと
花の筵を敷き詰めている
せっかく敷いた筵ゆえその上で
しばらくの時を過ごせよと桜は人を呼ぶのだろうか
移り気な花見客はすでに去っていない夜
ダフネはまだ眠っていたので
僕は一人で車を降りて
車に寄りかかって花の終わり近い空間を眺める
外は生暖かく窓を閉めた車内は息苦しそうに思えて
左右の窓を開け放ちダフネの側のドアも開け
そのままにする
かすかに風が吹いただけなのに
おびただしい数の花びらが舞い落ちてくる
まるで桜の木が花びらという風を吹かせているようだ
風が花を吹き飛ばすのか
それとも花が風をそこに引き寄せるのか
それはどちらもありそうなことだと思った
花吹雪という言葉があるが
桜は雪のように冷たくはないだろう
それなのに絶えずに舞い落ちてくる有様は
確かに雪の無限を思わせる
ふと僕は思う
花が咲くのは
花が咲く目的はこれほどまで美しく舞い落ちるためなのかもしれないと
花が地上近くに降り来った雲のように咲く姿は
命の燃え上がるように美しい
けれどこの花吹雪はもっともっと奥深い悦びを
人に与えるような気がする
僕よりも若くして出家した西行が
「花のもとにて春死なん」と歌ったのはなぜだったろう
下の句が「その如月の望月の頃」とあるゆえに
満ち足りて咲き誇った瞬間に死ぬことを夢見たのだろうか
これからすべてが芽吹く季節に死ぬことを
なぜ彼はそれほどまでに希求し
そしてほんとうに如月半ばの夜に死んだのか
西行伝説のなかには
修行のさなかに彼が人を恋しく思って
人骨を集め人を作ろうとしたという話がある
出来上がった者は人の言葉が通じない物の怪になり
西行は怖れてこれを置き去りにして逃げたと言うのだ
逃げるくらいならなぜ作ったのだろう
怖れるくらいならなぜ恋したのだろう
この夜
僕にはこの未熟な青年僧の恐れが少しだけわかる気がした
眠り続けているダフネの上にも
花吹雪は降り込んで彼女の額にも鼻の上にも
腕にも身体の上にも足の上にも薄い筵が掛けられていく
たまたま僕がフロント・グラス越しに覗き込んだとき
ダフネの唇に落ちた花びらがダフネの呼吸で揺れて
それから耳もとに落ちた
散るのならなぜ咲くのかと花を詠んだ人たちは大勢いただろう
けれど散らない桜があったとしたら
咲く悦びは消えぬ雪のように重く悲しくなるに違いない
咲くことと散ることは
この見事な木においては同じことなのだ
同じことのふたつの顔
どちらが欠けても成り立たない
ソメイヨシノは花が葉より先に開く
それは葉叢が虫たちから花を隠さぬように
葉叢が風たちから花を隔てぬように
そうするのだと言う人もいる
それは桜が意思をもってすることみたいにも聞こえ
可笑しい表現ではあるけれど
花に命を感じるならば
その命が意思をもって葉を遅らせると考えるのは
不自然とは言いにくいのかもしれない
けれど
この星の一般の進化の法則が語るのは
花の意思や目的ではなくて
たまたま葉が遅れた木が多くの子孫を持ったに過ぎないということだ
いずれにせよ散り始めの頃は
花びらを失った花芯が紅の雲になる
その第二の雲もやがて時と風とで散り散りになり
緑の葉叢に席を譲るのだ
ならば
花の目的は散ることなのだと言ってもよかっただろう
花は散るためには咲かねばならぬ
にもかかわらず咲くためには散らねばばらぬということはない
この当たり前の因果の筋道は不動に見える
しかしもし花が散らぬなら
花粉は硬い花の鎧の中に閉じ込められて
次の命 次の年の命につながれないのだとしたら
因果の順序はひっくり返り
花は散るためにこそ咲くのだと言うことが
奇妙ではなくなるのではないだろうか
計算することとはいかなることかを考えたチューリングは
木々の枝の分枝の論理や葉脈の延び広がり方に
ひとかたならぬ関心を持っていた
彼の中では計算機と枝や葉脈は同じだったのかもしれない
そのチューリングが最終的に解読する装置を作り出した
敵国ナチス・ドイツのエニグマ(暗号機)は
丸い輪廻のような円盤や円筒の仕組みを使って
平文を暗号文に換えたのだが
このエニグマはその後の簡単な暗号作成手順にも似て
暗号文をエニグマに手渡せばまた元の平文が現れた
その平文をまたエニグマに手渡せば
あどけなく落ちた眠りの中の夢のせいか
小さく動いたダフネを見ながら僕は思った
少しずつヴァリエーションを持ったにしても
暗号作成機であると同時に解読機でもあった
エニグマの
終わりのない変換作業こそ
命という暗号をとりまく造化の妙なのではないかと
僕という命も
ダフネという命も
それは繰り返し生まれて消える花びらのような
暗号なのだと