5時過ぎ
やはり日が傾くとまだ少し肌寒いなかを駐車場まで歩く
日本は季節がこの上なく美しく移り変わる国だと思う
この移り変わりが
古代ギリシャの哲学者なら万物流転と言い
インドや中国においては色即是空だったことなのかもしれないが
穏やかにいつの間にか移ろって行く日本の季節が
それをもっと感傷的な情緒的なものにしたのだろう
季節が冬と夏しかないような国では
移り変わりはある意味とても過酷な変化なのだ
道が混んでいたので予想より時間がかかった
こういうことが机上の計画では見通せないものだ
それでも僕がダフネの学校に着いたのは
「申告」した予定より1時間も早かった
「見学してもいいでしょうか」と尋ねると
もう八割がた白い髪をぐっと後に引詰めた校長が
「保護者だからいいでしょう」と答える
「ここの子たちは多かれ少なかれ
ちょっと難しい子たちだから
参観にも気をつかわないと」
でもそういう言い方をしながらも
このひとは生徒たちをガラス越しに見ながら目を細め
「ダフネは才能があります」と言う
「皆がダフネと同じ問題を抱えているわけではないのよ
いろいろな子がいてね
ダフネは大変な方の子だけれど
そうでない他の子たちより踊ることに集中できる」
大きな鏡の壁の前で練習している子どもたちを見ると
ダフネは年長のほうなのか他の子たちは背も小さい
それでもダフネよりも大柄の子も二三人はいるようだった
若い教師らしい女性が回りながら声をかけているのが
ガラス越しにも聞こえる
僕はこういう場所にはあまり来たことがない
一度もないわけではなかったが数少ない経験からだけ言えば
かなり本格的で広い練習場所だった
最初に見た瞬間にはすごく大勢の子が極めて規則正しく
動いているように見えたが
それは鏡に映った姿を人と見違えたからだ
「あなた ダフネをうまく制御できるほうかもしれないと
あの方がおっしゃってたけど そう?」
僕は思わず「制御?」と聞き返す
ダフネはロボットじゃない
「言葉が悪かったかしらね
でも足や腕それに首の筋肉だって巧く制御しなければ
美しいバランスは作れないのよ」と付け加え
「確かにあなた 何か少し風変わりね 何がとはうまく言えないけれど」
こういう仕事をして長いのだろうと僕は感じる
そういう人には何も言わなくても
いろいろとわかることがあるものだ
そう言うのならそうかもしれない
「風変わり?」
「いえ 見かけのことではありませんよ
何か雰囲気みたいなこと
いいわ ダフネの傍まで言ってみますか?」
「いえ 傍に行けば邪魔になるでしょう
もう少しこのままで」
「そう どうぞ でもダフネは集中すると
傍に誰が来たって気にも止めない
知ってるでしょう?
あなたが傍に行って
もしダフネが練習を止めるのなら
それはそれで
あなたが意味のある人だと言えるかもしれないんですよ」
「いえ やはりここで見ています7時頃まで」
「そう 了解」
正直なところ
「意味がある人かどうか」という言葉が僕を押しとどめたのだった
傍に行って眺めてみたかった
バレの練習服を着て
白いトゥ・シューズをはいたダフネを
しかしここからでもダフネはよく見える
皆がてんでばらばらに練習しているし
レベルにも大きな開きがあるに違いない
ダフネのとなりで
危うげに動いていた男の子が足でもひねったのか
フロアに座り込んでしまった
ダフネの足下すぐのところだったので
最初ダフネは気づかないようで
やがて足がその男の子の肩に当たったのか
バランスを崩して倒れそうになる
バランスを取り戻して
倒れはしなかったが立ち尽くしてしまう
自分の踊る場所がなくなったからだ
教師が近づいて
軽く背中を押すようにしてダフネを
別の空間に
僕がこちらから見ている大きなハーフ・ミラーのそばに連れてくる
ダフネはひと呼吸してさっきと全く同じ仕草を再開する
ベンチに座ろうと僕が少し位置を変えたので
ダフネと鏡に映るダフネがところどころ重なって
二重写しになる
鏡というものはこうして見ていると不思議なものだ
ダフネが鏡に向かって右手を上げれば
鏡の中のダフネも右手を上げているはずなのだが
もしダフネのミラー・イメージが鏡像ではなくて
ダフネの真似をするのが大好きな子どもだったとしたら
その子は左手を上げていることになる
たった一枚の光を反射する板が
この魔法のシステムを作り出す
人間のように形や色それから音をも認識するロボットで
おそらくとてつもなく難しいことは
鏡というものを理解することだろう
ましてや鏡を覗き込む風習は人間にしかない
生身のダフネと鏡の中のダフネが
重なってデュエットで踊る
でもそこにはたったひとりのダフネしかいないのだ
「気がつきましたか」と何時の間にか戻った校長が聞く
「気がつく?」
「ダフネですよ 実に正確」
「家や庭で踊っているときとは違います
何かとても巧い
というか」
「というか?」
「いや なんだかよくわかりません」
「そう」と言ってからしばらく黙っていた校長が
ふっと息を吐いてから言う
「私 ときどき思うのだけれど
ダフネは鏡の中のダフネに合わせて踊っているのではないかとね
同じ動きになるのは当然ですよ 鏡なのだから
私が不思議だなあと感じるのは
ダフネの動きが鏡の中のダフネより
ほんの少しだけですけどね 後れているような感じなのです
そんなはずはありっこありませんが
そんな気がしてしょうがない時があるの」
校長の言葉を僕はもう少しで震え出しそうになって聞く
何が衝撃なのか僕には分からない
けれど
「しょうがない時ってどういう?」と僕は聞く
「それが分かれば苦労はしませんよ」と
背筋をすっと伸ばした姿勢で校長が微笑みながら言う
練習場の出口で待っていると
一区切りついた子たちがばらばらと出てくる
みな動いた後の上気した顔をして
七八人に続いてダフネが出てきた
白い顔や腕がほんのり赤い
ずっと踊り続けたせいか額にかすかに汗が光っている
ダフネは僕に気がついたようだったが
そのまま僕にぶつかりそうなほど
すぐ傍を更衣室の方へ通り過ぎていった
またダフネの香り
いつもよりはっきりと
そのとき僕は気づく
ダフネの匂いは今僕の傍を通り過ぎて行った他の子とは違う
もしかして
これはヨーロッパの人たちの匂い
遥か遠い記憶の中の人たちに似た